「王子~?」
麗らかな春の午後、光溢れる太陽宮に、長閑な声がこだました。
耳に馴染んだ自分を呼ぶその声に、彼の口元は自然と弛む。
彼は夢を見ていた。
今となっては懐かしい呼ばれ方も、まだ当然だったあの頃……
長年近くに居たにも関わらず、彼女の心に初めて触れたあの時……
「わたしにはもう……女王騎士でいることしか残っていないだけ」
彼女は――ミアキスは、彼の妹・リムスレーアの幼い頃からその護衛を務めてきた女王騎士だった。
年上とは言っても彼とそうも違わないし、体格も華奢な女性なのに、いつだって彼はミアキスに敵わなかった。
武芸も勿論のこと、頭でも口でも、勝てたためしが無かった。
顔には出さなかったが、それが無性に悔しかった。
ミアキスはいつも笑顔でどこかふざけている感もあり、面と向かって話していても、どこか本当の彼女では無いという気がしていた。
勝つことができたら、真剣に向かい合ってくれるだろうか。
本当のミアキスを見ることが出来るだろうか……。
幼い頃から彼は、ずっと、そんな風に思ってきたというのに……
「わたしに言うことを聞かせたかったら、わたしを倒して下さい」
あの戦いのさなか、彼の前に立ち塞がったミアキスは、そう言って、苦しそうに歪めた瞳から涙を流したのだ。
生い立ちも、想いも、彼は何も知らなかった。
だから、本当のミアキスと向き合って、それを知りたいと思った。
仮面の笑顔を外した、本当のミアキスに触れたいと。
だが……
「そんな顔、見たくないよ……」
口の中で呟いて、彼は一歩前に出た。
自分の護衛であるリオンを下がらせて、三節棍を構えた。
いつも笑っていたミアキス。
初めて見せてくれた本音は、強い彼女とは結びつかない慟哭だった。
恐らくミアキスは、女王騎士であることへの誇りも、思い入れも、人一倍強いのだ。
そのミアキスが、リムスレーアも居ないこの場所で、他でも無い彼に、助けてくれと泣いている。
ならば彼は、自分の何を引き換えにしても、その手を取りたいと、そう思った。
「負けちゃい…ました……」
お互い真剣にやり合ったのは初めてだった。
辛くも勝ちを収めた彼に、ミアキスは満身創痍でありながらも、ただひたすらに謝り続けた。
「ごめんなさい……ごめ…なさ……」
涙を流して繰り返すミアキスを、彼は思わず抱きしめていた。
もういいんだ――そう言う代わりに、耳元に一言囁く。
「おかえり」
「う…うわあああああ~~~~!!」
声を上げて泣いたミアキスを、彼は強く抱きしめた。
頑固で、意地っ張りで……一途な分、融通が利かなくて。
普段から何でもかんでも我慢して、笑顔の下に隠しているから、一度溢れてしまえば、ひどく脆い。
彼はその時ようやく、ミアキスの心に触れたのだった。
「王子ぃ~…あ……お休みだったんですね」
彼を探して部屋に入ってきたミアキスの声が柔らかくなって、彼の鼓動が速度を増した。
一瞬夢の続きかと思ったが、こちらは現実らしい。
今ので完全に目は覚めたが、ミアキスがどんな反応をするかを見たくて、彼は目を開けなかった。
「ふふ…王子の寝顔なんて久しぶり…………悪戯しちゃいますよ?」
不意に目の前に影が差して、頬に柔らかな熱が触れた。
「っ!?」
驚いて目を開けた彼の視界に、満面の笑みのミアキスが映る。
「私を騙そうなんて、十年早いですよ、王子?」
彼は思わず苦笑した。
これではまるで、夢に見ていた王子時代に戻ったようだ。
「私はもう"王子"じゃないって、何回言えば分かるんだい、ミアキス?」
あれから随分時が流れた。
彼の肩書きは『王子』から『女王騎士長』になり、一人称は『僕』から『私』に変わった。
それによって彼に対する皆の接し方も相応に形を変え、名前に様を付けて呼ばれることが多くなった今でも、ミアキスだけがずっと以前と変わらないままだ。
「だって、王子は王子ですから」
笑顔でいつもの台詞を言うミアキスに、彼もいつものようににこりと笑った。
頬に口付けされて動揺した手前、効果は半減だろうが。
「ところでミアキス、どうしてここに? 今日はソルファレナ周辺の警備を命じた筈だけど?」
「はい。ですから、ちゃんと次のカイル殿に引継ぎして、お仕事終わらせてから来ましたよ?」
時計を見ると、まだ随分と日も高い時刻――交代は夕方だった筈だ。
一体、どんな脅しをされたんだ、カイル……自称不良騎士に哀れみを馳せてから、彼は溜息をついた。
それに対して、ミアキスはむっと眉を寄せる。
「何度も言いますけど、陛下のお傍にいられなくなった今、陛下を守る女王騎士長を守ることが、私の使命なんです!」
「それじゃあ私も何度も言うけど、ミアキス……君は、もう陛下にも私にも縛られる必要は無いよ。勿論、女王騎士として王家を守るということは当然だろうけど、こうやって他の仕事に無理を回してまでするのは間違っていると思う」
真っ直ぐにミアキスを見つめて、彼は言った。
彼女は、本当に一途に過ぎるのだ。
リムスレーアを守ると定めた過去の自分に、忠実に動こうとしている。
いつか、あの時の…夢で思い出したあの時のように壊れてしまったら――……
それを思うと、彼は居てもたってもいられなくなる。
「ミアキス、そこまでして、リムの傍に居たいの…?」
「もちろん姫様もですけど、わたしは王子のことが心配で……あ……」
珍しく真剣な顔で言い募ったミアキスは、途中で自分の口が滑ったことに気付いたのか、慌てて口を塞いだ。
その動揺ぶりがより彼女の本音を物語っているようで、彼の瞳も愛しさに弛む。
しかしすぐに綺麗な笑みを浮かべて、彼はミアキスの手を取った。
「私のことが心配で、それで何だって?」
「何でもありません!」
「言いかけたことを途中でやめるのは良くないな。父さんも…前女王騎士長閣下も言っていただろう? 遠慮することは無いから、言いたいことはどんどん言えって」
掴んだ腕を引いて、ソファに座った自分の上にミアキスを引き寄せると、彼は悪戯めいた瞳を輝かせて下からミアキスを覗き込んだ。
「それに、私のことは名前で呼ぶようにと、言った筈なんだけれどね?」
「も…もう! だから嫌なんです! 王子ってば、いつの間にそんなに腹黒くなっちゃったんですか!? 今じゃ剣だって敵わないし、そんな顔するなんて……反則です!」
半ば悲鳴のように言ったミアキスに、彼は笑った。
先日城の中で、女官たちが、彼とミアキスは似たもの同士だと噂しているのを耳にした。
何でも、腹に一物持った笑顔がソックリなのだという。
そう言われるのは、彼にとっても望むところだ。
「――強いて言えば、強さも腹黒さも、全部ミアキスの為……かな?」
彼が言うと、ミアキスは真っ赤になって沈黙した。
彼もミアキスと同様に、普段はあまり本音を見せないので、真剣な言葉が効果的だったのかもしれない。何せ、似たもの同士なのだ。
「ほら、ミアキス、私の名前を呼んでみて……?」
「…………… 」
ミアキスが呼ぶ自分の名が、とても眩しいもののように聞こえた。
そして彼を見つめてやはり眩しそうに笑ったこの時のミアキスの顔を、彼は一生忘れないだろうと思った。
一途な君は、僕の黎明――