闇の中、何も聞こえない筈の耳に音らしい音が届いたのは何日ぶりだったろうか。
彼は、現実の闇――そして、己という心の闇の中に囚われていた。
暗く湿った凍れる地下牢は、今の自分には心を鏡に映したように似合いだと思う。
鎖に繋がれた腕は、とうの昔に感覚を失った。
腕だけではない。
足も顔も体も……痛みも感じなければ寒さも感じない。
ただ浅く繰り返される白い呼吸だけが、自分が生きている証だった。
そんな彼――アルベルの心に最も色濃く残っているもの――
気を失う度に、夢の淵にちらついて彼を苛立たせるもの――
――「アルベル様っっ!!」
その悲痛さを帯びた声が頭から…耳から離れない。
反逆罪をきせられて拘束された背中から何度も届いたその声――
――「だから、アルベル様は強いのですね」
――「アルベル様は、とてもお優しい方ですから」
自分自身さえ己を信じられないというのに、何の躊躇いも無く忠誠を誓うなどと言った女。
自分にそんな価値は無いと思う反面、微かに喜びを感じてしまうことも事実で――
それは、ガントレットに隠された火傷を見る度に感じるものとどこか似ていた。
――「アルベル様っっ!!」
また声が聞こえた気がして、アルベルは軽く自嘲の笑みを浮かべた。
まるで泣いているようなそれを聞いた瞬間、ひどく単純な衝動が湧き上がった。
泣かせたくない。
支えてやりたい。
全てのものから――全ての危険、全ての視線から――遠ざけたいと。
――「何だか知りませんが、アルベル様は意外と弱虫なのですね! 見たくないものから逃げるだけなんて」
ガントレットの話をした時に言われた言葉。
その通りだと思った。
ガントレットに対してだけではなく、それは彼女に対しても言えることだった。
見たくなかった……認めたくなかった。
強さ以外のものに執着している暇など、アルベルにはありはしない。
他のものに気持ちを割いた分だけ、また強さから遠ざかってしまう気がして……
今頃何をしているだろうか、と赤い瞳が虚空を見遣る。
自分の知らない場で危険に遭っていたら――また無謀な行動に出ていたら――
そればかりが頭の中を何度も巡る。
ウォルターに”過保護”などと言われたが、あながち反論も出来ないかもしれないと苦く笑って、アルベルはまた目を閉じた。
「……」
彼女の名を、一度呟いて―――
そうして囚われて数日後、闇の中、見回り・拷問などの定刻以外で物音が届いたのは初めてのことだった。
何事かとさして興味も持たずに顔を上げて扉の外の様子を窺う。
どうやら見張りが交代するようだが、それにしては騒がしい。
それに、まだ交代するような刻限では無いと思っていたが、とうとう時間の感覚もマヒしたのかと大して不思議にも思わなかった。
しかし、それはその後の外からの声に一変する。
「団長……! 団長……!?」
潜めた声での聞き覚えある呼びかけに、アルベルははっと顔を上げた。
「てめぇ、ラドフ……何しに来やがった……?」
漆黒での割と信用の置ける部下……そしての教育係でもあったラドフである。
しかし、国家反逆罪は本来極刑の重罪……重罪人には、王以外の誰の面会も許されていない。
「ご心配無く、酒一本で買った安い面会です。――とはいえ、あまり時間がありませんので早速用件に入りますが――」
そして数秒の後、ラドフは徐に「団長はご存知でしたか? 昨日、シーハーツとの全面衝突があったのを」と聞いてきた。
ご存知も何も、ここに入れられてからこのかた、アルベルが耳にしたのは見回りなどの物音と尋問官の下卑た声だけだ。
「昨日……初耳だが、まあ予想通りだな。あのヴォックスが新型施術兵器の話を聞いて黙ってる筈がねぇ」
ふと気になって、「漆黒は出たのか?」と聞いたアルベルだったが、ラドフは少し苛立ったように「そんなことはどうでもいいんです!」などと言った。
いつもヘラヘラして、減らず口を絶やさないこの男にしては珍しいと思う。
自分でもそれに気づいたのか、ラドフは気を取り直してすみませんと謝った。
「漆黒は最初は王都の防衛という留守居が割り振られていたんですけど、開戦直前になって半数ほどがヴォックス様の指揮で前線に組み込まれました。そのことはまた後日詳しく報告するとして、今はのことです」
ドクン――
アルベルの心臓が大きく跳ねた。
ラドフの暗い声に体温が急激に下がっていく。
「まさか、あの阿呆が………」
「はい、自らウォルター様に志願して、たった一人で前線に―――」
予想通りとはいえ聞き捨てならない言葉に、思わず体が前に出た。
腕を拘束した鎖が嫌な音を立てる。
「なんで止めなかった!! なんで……何を考えてあの阿呆が………」
その時、更に何人かが廊下に入ってきた気配が伝わってきた。
「来たようですね」
「……一体何のことだ」
憂いを帯びたラドフの言葉に、アルベルの問いは掠れていた。
妙な胸騒ぎがする。
ラドフはしばらく逡巡した後、重い口を開き、信じられない言葉を口にした。
「は、戦場でやられて――重症を負ったんです」
「な……に………?」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
ただでさえ冷え切った指先は、氷のように痛みを伴った。
「シーハーツの奴らに…やられたっていうのか…?」
声が掠れていた。
泥のような怒りと虚無感が広がっていく。
しかし、ラドフはいいえ、と言った。
「乱戦と化した後に星の船が現れて……とにかく、得体の知れない空飛ぶ船から砲撃が浴びせられ、もそれにやられたんです。同じようにやられた奴らは、一旦は命を取り留めたやつもみんな次々に……医者の話によると、外傷よりも体の中がやられていて手の施しようが無いと……」
無念そうな声音での説明は、アルベルに絶望を落とした。
「今なら、まだこいつも話せる状態だから連れて来ました。流石に鍵は手に入らなかったんで顔を合わせることは出来ませんが……とにかく、置いていきます。しばらくしたら迎えに来ますから、最後に話してやって下さい」
(最後――……?)
一方的に言い終えたラドフは、「じゃあまた後でな、」と言い、を連れてきたらしい数人と一緒に出て行った。
キンと冷えた空間の中、痛いほどの沈黙と自分の心臓の音……そして、扉の外から聞こえる浅い息遣いがアルベルの耳に付く。
やがて、外の気配が微かに動いた。
「アルベル様……?」
その弱々しい声を聞いた瞬間、アルベルはとっさに駆け寄ろうとしたがじゃらついた鎖がそれを阻止する。
それに深く舌打ちすると、ガントレットの左手から炎を発現させて鎖を焼き切った。
炎の試練で失敗した時、ドラゴンの炎に焼かれた代償――受けた呪いの力だ。
久方ぶりに自由になった体をふらつかせ、扉の前まで行く。
鉄の扉も溶かしてやろうとして、ふとに声をかけた。
「おい、どいてろ」
このままでは、声の位置からして扉に凭れ掛かっているであろうも危険だ。
だが、は弱々しく謝った。
「すみません……自分じゃ動けないので」
はっとしたアルベルに、「やられたの、下半身なんですよね」とは他人事のように言う。
「それに――駄目ですよ。扉まで壊しちゃったら、流石にアルベル様と言えどヤバイですよ」
「てめぇ、こんな時に人の心配してんじゃねぇ!! ――この…阿呆が……!!」
鉄扉を拳で叩いて、それを背にするようにずるずると座り込んだアルベルは深いため息をついた。
前髪を掻き揚げて天井を仰ぐ。
「クソ虫の分際で、なんで一人でのこのこ戦場なんかに出やがったんだ……誰が行っていいっつった?」
「ウォルター様が……」
「てめぇは俺の部下だろうがっ!」
苛立ちのままに怒鳴ると沈黙が返ってきた。
まさか泣いているのか、と思い扉を振り返った時、らしくない小さな声が漏れた。
「私は…アルベル様の部下ですか……?」
アルベルは眉を顰めてどういう意味だと問う。
「私という副官なんて、アルベル様は必要無かったと………」
――「副官というのも王が勝手に決めたこと……俺には必要の無かったことだ」
別れ際にヴオックスに言った台詞が甦ってくる。
アルベルはまた大きく舌打ちした。
そんなことを真に受けて気にしていたのか……と苛立たしさが募る。
こんなに人の心を掻き乱しておいて――
「ただの言葉のあやだ、阿呆!」
「本当……に…?」
「ああ」
「じゃぁ、必要ですか?――私は、アルベル様に……」
「そうだっつってんだろ、阿呆が!」
「良かった………」
心底ほっとしたような声で言って、そしてそれきり言葉は無くなる。
アルベルは不安になって呼びかけた。
「おい、」
「………は…い……?」
寝ぼけたような声。
普段ならただの眠りだが、先程のラドフの説明通りだとするとそれは――……
「て…めぇ…、簡単にくたばりやがったら許さねぇからな……!」
「大丈夫…です……ちょっと…眠いだけですから……。私…こう見えても頑丈なんですよ……」
「信用出来るか、阿呆が……!!」
ガンッ! と胸の痛みと共に殴りつけた部分は、ちょうどがもたれていた辺りらしい。
扉の向こうで小さな悲鳴が上がった。
しかし、それで少し目が覚めたのかが苦笑する。
「いえ、本当に。私は、この星の人たちとは少し体質が違う――怪我なんかの回復力が異常に高い種族なんです」
「なに……?」
――「どこから来た?」
――「空の上……そのもっとずっと遠くの、別の星から」
数日前のやりとりを思い出す。
あの状況で嘘をついているとは思っていなかったが、では本当に――
それに、そう言われて見れば、回復の早さについて思い当たる節もある。
何はともあれ、いま確かめなければならないことは――
「治る……のか……?」
間抜けな問いだったが、も大真面目に頷いた。
「私が普通の人間ならば駄目だったでしょうが――大丈夫です、回復に向かってますから。後一週間も寝てればすっかり完治ですよ」
その返答に、アルベルは安堵して体から力が抜けるのを感じた。
「………紛らわしいこと…するんじゃねぇ……」
疲労感にまかせて、再び扉に背を預けた。
「すみません、ラドフさんたちには説明しずらくて……それに…………」
珍しく言いよどんだを、アルベルが促がす。
「それに……?」
「会い…たかったんです………」
躊躇いがちに言われた言葉に、アルベルは息を呑んだ。
それは、アルベルも全く同じだったから――
だから、ため息と共に吐き捨てた。
「阿呆が―――」
冷たい鉄の扉一枚を隔てて重ねた背中が熱い――
後は、会話らしきものは無かった。
ラドフらの迎えが来るまで、静かにお互いの鼓動と息遣いを聞いていた。
04.6.1