蔦の姫 -春風-

 茶州では、厳しい冬の終わりには唐突な春がやってくる。
 気候面だけでは無く、人々の心にも。



 その日の午前――始業間もない茶州府・琥璉城。
 そこで繰り広げられる天変地異の前触れかとも思われる事態に、州牧補佐である浪燕青はあんぐりと大口を開けていた。

「開いた口が塞がっていませんよ、燕青」

 そう言って杖をついて近づいてきたのは、数年来の戦友とも言うべき相手。
 気心も知れており、何よりここで数年共に過ごした同士であるのだから、誰よりも今の燕青の心情を理解してくれるだろう。

「なぁ、悠舜……これって、夢じゃないよな? いや、悪夢だったらむしろ納得なんだけど」

 しかし戦友――鄭悠舜は、そんな燕青を現実逃避とばかりに一笑に伏して言った。

「間違い無く現実ですよ。彼らも人の子だったということです」

 台詞は何でも無いことだというように淡々としていたが、その目はどこか遠くを見ている。
 どちらが現実逃避だと思わないでも無かったが、燕青は賢明にもその言葉を飲み込んだ。

「……まさかここに、春風祭が侵入する日が来るとはなぁ……」

 半ば茫然とそう呟いた視線の先では、州官たちがまさしく血眼になって城内を東奔西走していた。
 常に慌ただしい州府ではあるが、今日のそれは100%仕事外の要素によるものだ。

 春風祭――春一番が吹く頃の一日を指すのだが、誰がいつ頃から始めたのか……そんなに歴史も深くは無いらしく、地域によってその意味は様々であるという。
 名前の通り、春風を祀って集落ごとに祝う素朴な所もあれば、単に自然の恵みに感謝してご馳走を食べるだけという場所もある。
 少し変わった所で、親を労う日だとか、子供を愛しむ日だとか、家族で過ごす日だとか……要は、風土によって意味もバラバラのうららかな春の一日なのである。

 そしてその中でもこの茶州中心部は、群を抜いて変わった風習を持っていた。

「……一体誰だよ、こんなこと始めた奴は」

 そこに居るだけで苦痛だとばかりにげっそりと溜息をついた燕青の前には、大量の食べ物が並べられていた。
 本来仕事机として使用されている大きなスペースに、所狭しと様々な料理が並べられ、まるでお供え物のような様を呈している。
 これが供え物なら、祀られる人間も居るのだが……

「ま…まあまあ。みんな好意でやってくれてる訳だし」
「好意で命落とした日にゃ、笑うに笑えねぇぞ、姫さん!」

 祀られる人――紅秀麗も、流石に片頬を引き攣らせて苦笑した。

 茶州の春風祭……それは、男が意中の女性――もしくは連れ合いや大切な人、果てはお世話になっている近所のおぱちゃんにまで――ドンと真心こめた男の料理を作って贈るという不可思議な習慣の日である。

 男が女に料理の贈り物――それだけでも毎年あちらこちらから悲惨な末路や惨敗報告が聞こえてくるのだが、本気ともなれば告白や求婚を兼ねることも多く、このイベント後のカップル成立率は毎年増加傾向にある。
 そんな訳でこの日は、報われる保証もないままに茶州の男たちが目の色変えて張り切ってしまう日なのだ。
 何だか悲しいが、当事者たちは真剣そのものである。

 尤も、燕青は茶州出身であるがこのイベントにはほとんど縁が無かった。
 春風祭に関する思い出と言えば、遥か昔の穏やかだった日々に家族と共に過ごしたくらいのそれしかない。
 それを思い出すから余計に苦手だ――というシリアスな理由もあるにはあるが、単純に女っ気が無かったというのが大きいだろう。
 特に仮初の州牧になってからは、刺客に追われまくってそれどころでは無かったし。
 ……これは決して言い訳では無い。

 去年までは、この州府にも全く関わり無いイベントであった。
 妻帯者はいそいそと帰るが、ほとんどが独身で仕事が(無理やり)恋人のようなむさい男たちばかりだ。
 世の中のこの風潮を憎悪する節すらあって、一部の家庭持ちや恋人持ちは毎年肩身の狭い思いをしていた。

 ところが、である。
 今年は長年待ち望んだ正式な州牧として可愛い少女がやって来た。
 州府の全員が秀麗に対して好意と思慕を持っている。

 燕青は全く気付かなかったが、今日この日の為に水面下で抜け駆けの牽制や策謀が張り巡らされていたらしい。
 そんな訳で蓋を開けて当日の今日――州府は朝から様々な食べ物の臭いに包まれ、普段あまり料理をしない男たちによって占拠された台所は地獄に様変わりした。

 あちこちで食器を割る音、鍋をひっくり返す音、消えた食材を探す声、どうしようもなくなった料理に対する救助、自分の料理を味見して倒れる者等々……悲鳴絶叫阿鼻叫喚。
 それでも続々と料理だけは生産され、秀麗の室に運ばれるものだから、室内は異様な臭いが混じり合って耐えがたい空間と化していた。
 少しだけでも、と異物に箸を付けようとする秀麗を燕青が必死に止め、静蘭などは腰の剣を抜いて暴れだしそうな程に不機嫌度合が高まり、つい先ほど限界だとばかりにどこかへ走り去って行った。
 恐らく元凶の台所を襲撃しに行ったのだろうが、この分だともう手遅れだろう。

 無駄足の静蘭と無駄に制裁を受ける州官たちに黙祷を捧げ、さてこの料理をどうするかと燕青が溜息をついた時だった。

「失礼いたします――こちらに静蘭様はいらっしゃいますか?」

 ひょっこりと顔を出した少女に燕青の米神がぴくりと動く。

さん! ……惜しかったわ、ついさっき出て行った所なのよ」
「まぁ、そうでしたか。お邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。秀麗様、悠舜様」
「いえ、別に構いませんよ。どうせ今日は仕事になりませんしね。ところで……まさか今日もお持ちとは」

 招かれざる(燕青にとって)訪問者――は、その手に小ぶりの籠を持っていた。
 その中からは可憐な花が一輪覗き、ここの料理とは違ってひどく品の良い甘い香りがする。

「どんな日であろうと、私のすることは変わりません。……流石にこちらの台所は使えませんでしたけど」
「ええと……それはそうでしょうね……何と言うか、すみません」
「いいえ、秀麗様が謝ることじゃありません。それに私、一生懸命な人は好きですから」

 にこりと花のように笑ったその表情に、燕青は面食らった。
 まただ。
 最近、腐れ縁の燕青でさえ知らない表情を、このはよく見せるようになった。
 特にこんなに柔らかく笑う顔など、出会ったばかりの頃でさえ見た記憶が無い。

「――オイ」
「それでは、そろそろ失礼いたしますね。温かい内に召し上がっていただきたいので、外を探してみます」
「………オイって」
「後でお二人にも持って参りますので……あ、でも、今日はいらないかしら」
「ああ、いえいえ。是非ともお願い致しますよ、殿」
「ふふ……お任せ下さいませ、悠舜様」
「オイって言ってんだろーが!」

 いい加減無視されるのも堪忍袋の限界でその腕を掴んで振り向かせれば、そこには先ほどの笑みの欠片も無かった。
 何の温度も持たない淡々としていつもの瞳が燕青を射抜く。

「あら、コメツキバッタさんじゃありませんか。もしや先ほどからおいおい言ってらしたのは、わたくしのことを呼んでらしたの?」
「ああ、そうだよ。世間知らずの押しかけ姫様をお呼びしてたんだっつーの」
「とんだお呼びの仕方ですこと。余りにもおいおい五月蠅いからてっきり負け犬のように泣いているのかと思いましたわ」
「はっはっはっ、誰かさんにケツ追っかけ回されてる静蘭のことを考えるとそりゃぁ泣けてくるけどなぁ」

 キッと睨み付けてくるその視線を睨み返して数秒、近づいてくる知り過ぎた足音に反応した燕青だったが、気配など読めないはその燕青の様子の方に目敏くも気付いたらしい。

「静蘭様」

 流れるような動作で――けれど素早く、入口の辺りで静蘭を迎え、そのまま何事か会話を交わした後、室内の秀麗と悠舜だけに頭を垂れて出て行った。
 あまりにも流れるような鮮やかさだった為、燕青は止める暇も無かった。

 自分の方が早く静蘭に気付いていたのに、と思うと釈然としないものがあり、だからこんなに苛々するのだと言い聞かせて、燕青はどっかと自分の椅子に腰を下ろした。

「えー…と、何て言うか……燕青、大丈夫?」
「――何が?」
「いっ…いえ、大丈夫だったらいいのよ、おほほほほ」

 わざとらしく笑った秀麗の横で、悠舜が深々と溜息をつく。

「こんなに愛らしい上司を怖がらせてどうするんですか。全く、イイ年をして焼き餅などとしようの無い」
「……は? 誰がだよ、誰が!」

 動揺したのを悟られないように顔を背ければ、燕青の後ろから今度は秀麗の溜息が聞こえてきた。

「それにしても、燕青に女の人の天敵なんて想像出来なかったけど……実物を見た今でも信じられないわ」
「まあ……私も最初は驚きましたが。それだけ姫が特別だということでしょう。ねぇ、燕青」
「……特別腹が立つって点では認めるけどな」

 普段から頭の上がらない二人を相手にするのは分が悪すぎるとようやく気付いて、燕青は腰を上げた。

「あら、どこに行くの?」
「……さあなぁ。とりあえず、美味い空気を吸いに?」

 疑問形なのは自分でも分からないからだ。
 ただ、今庭の方に行けばと静蘭に会うだろうから、そちらは却下だ。
 あの静蘭に向けられるウソ臭いくらい朗らかな笑みを見るなど、美味い空気どころか考えただけで胸が悪くなる。

 藍家の姫であるが茶州へやってきてもうすぐ一月……遠路遙々やってきた目的は『静蘭の嫁になる為』。
 燕青と犬猿の仲である彼女の、その突拍子の無い目的の理由は知らない。
 しかし、藍家が絡んでいて本人の意思で無いことは確かだ。
 だというのに、自身、目的を果たそうという決意だけは固いらしく、州城に雑用として居付き、毎日甲斐甲斐しいほどに静蘭の為に休憩用の甘味を作り……
 そして笑顔を浮かべながらも華麗に逃げ回っていた静蘭を、最近ではお茶に応じさせるまでに籠絡していた。

「――ああ、燕青。散歩に出るなら、春が来たと勘違いしている部下たちに、それは勘違いだと教えて回っておあげなさい」
「……………は?」

 言われている内容が分からずに呆けた燕青に、悠舜はにっこり笑って告げた。

「たくさんの若人たちが、秀麗殿と同じように殿にもいじらしい想いを伝えようと料理を贈ったのですよ。が、殿の場合はそれを全部、それはそれは花のような笑顔で嬉しそうに受け取っておられましたから」

 自分だけだと勘違いしている者たちが少し哀れでしてね。
 そんな風に括った悠舜の言葉は、燕青にとってはまさしく寝耳に水だった。

 まず、のことをそんな風に見ていた人間が居たことが信じられないし、それを喜んで受け取るというのも信じられない。

 確かに外面は良いが、矜持は山よりも高く、傲慢な人間である。
 本人はそれを自覚している……どころか、わざとそんな風に振る舞っている節さえあるが、とにかくそんなが一介の州官からの下心見え見えの贈り物を受け取るなど……

「とは言え、アレを全部口にした殿のことも心配ですねぇ。さっきも顔色が悪かったようですし……おや、どうしました、燕青?」

 思わず顔を強張らせた燕青に、悠舜は殊更丁寧に訊ねてくる。
 そのあまりにも黒い性格に、逆らうことも白旗を上げることもせず、燕青はただ黙って執務室を後にした。

 その話を黙っていた悠舜たちに対する僅かながらの苛立ちと、何も気付かなかった自分への苛立ち。
 そして何より、理解不能なに対する怒りにも似た感情を抱えて。

 燕青は足早に普段は近寄らないその室へと向かったのだった。






 バタン!と派手な音を立てて室の扉を開くと、中の人間はびくりと大きく体を震わせた。

「え…燕青っ! 貴方、ノックもしないで一体どういうつもり……」
「どういうつもりはこっちの台詞だっつーの!」

 いつものように噛みついてくる言葉をねじ伏せて、燕青は顔を顰めたままツカツカと歩み寄り、警戒したの背後にある窓を大きく開けた。

「空気が悪い」

 一言だけ言って、外の新鮮な空気を吸い込んだ。

 の室内は悠舜が言っていた以上に惨憺たる状態だった。
 秀麗以上に料理が積み上がっている。
 一体どういうことだ。と言おうとして、ここに静蘭の姿が無いことに気付いた。

「………お前ら……」
「あら……いつもながら、察しは悪くないのね」

 州官たちの気持ちを弄ぶな、と文句を言ってやろうと思っていたのに、事はそんな可愛いものでは無かったらしい。

 恐らく、と静蘭は共謀して、の方にこれらの料理が集まるように仕向けたのだろう。
 それとは関係なく本気でこの料理を作った男たちも居るのだろうが、数が余りにも異常だ。

 静蘭の目的はいつだって一つ――『秀麗を守る為』。

「静蘭は分かるが、お前は何を企んでる?」
「相変わらず失礼な人ね。居候の身ですもの、ちょっとしたご恩返しよ。秀麗様が倒れたら大変でしょう?」
「だからってなぁ……クソ、静蘭の奴、何考えてんだ!」
「静蘭様は悪くないわよ。これは私の意思だもの」

 ぴくりと燕青は米神を震わせた。
 のこんな所が鼻持ちならないのだ。

「お前の意思? 静蘭と結婚すんのも、州府に居座ってあちこち嗅ぎ回るのも、全部お前の意思だってのか!?」

 思わず声を荒げた燕青に、いつもどんな時でも動かないのポーカーフェイスが動いた。
 それは、先日野盗に攫われた時にも見せた泣きそうな表情で。

 僅かに動揺した燕青の前で、はくるりと背を向けた。

「……私は、私の意思でしか行動しない」
「…嘘つけ」
「嘘じゃ無いわ」
「だったら、こっち見て言ってみろ!」
「っ――嘘じゃ無い!」

 振り返ったの目には隠しきれない涙が溜まっていた。
 ツ、と一筋零れて、燕青は息を呑む。

「本家に命じられて動くのも、その為に無理やり自分の心を歪めようとするのも……全部私の意思だもの!」

 その切羽詰まった様子から、はっきりと確信した。

……お前もっと器用な奴かと思ってたけど、めちゃくちゃ不器用なのな」
「なっ……!」
「もうやめろ」

 ゆっくりと告げたその言葉に、の目がゆるゆると見開かれた。
 そして振り上げられた平手を、燕青はその華奢な手首を取って止める。

「放してっ! ……いい加減にしてよ、燕青! もう私を振り回すのはやめて!」
「振り回してんのはそっちだろーがっ!」
「冗談……訳の分からないこと言わないで!」

 ぷちりと、燕青は自分の中で何かがキレる音を聞いたと思った。
 訳が分からない?
 この期に及んでまだそんなことを言うのか、この女は。

 大きく息を吸い、思い切り大声で怒鳴りつけた。

「好きでも無い奴追っかけたり! 何とも思って無い奴から食いもん貰ったり! そういう馬鹿なことすんなって言ってんだ!」

 涙の溜まった目でぽかんと見つめてくるは、見たことが無いくらい無防備な表情をしていた。
 そうだ……性質の悪いことに、こうやってこの娘が素の表情を見せるのは燕青だけなのである。
 燕青とてどうせなら笑った顔の方が良いに決まっているが、その辺は大目に見てやらなくもない。

 ふんと鼻息も荒く、燕青は傍の椅子に腰掛ける。
 そして猛然と卓の上の料理を平らげ始めた。

「ちょっ……ちょっと、燕青!」
「うるへぇ。お前がほんなに食へるはへねぇーだろ」
「食べながら話さないで…って、そうじゃなくて! これは私がいただいたものなんだから……」
「うぅ、マズイ……。ぷはぁ、変なとこで律儀だよな、

 燕青は水でゲテモノ料理を嚥下して、困惑するに向かってひらひらと手を振った。

「いいっていいって、俺が許可するからこれ以上食うな。腹壊すだけじゃすまないかもしんねーから」
「でも……!」
「あーもー……そんなに腹減ってるならコレでも食っとけ!」

 そして懐に入れていたものを放り投げる。
 慌てて受け取ったの掌には、竹皮に包まれたおにぎりが乗っていた。
 先ほど台所に行って大急ぎで詰め込んできただけのそれは、まだほんのり温かい筈だ。

「………………………」
「……………………………………」

 微妙な沈黙が二人の間を支配した。
 燕青はガラにも無く緊張している自分に気付き、今更ながらに言い訳を考えた……が、何も浮かばない。

 やがてガサガサと包みを開く音が聞こえ、ぷっとが噴き出した。

「大きい……」
「………おう、俺の非常食だかんな。味だけは自信があるぜ?」

 最早訳が分からないことを言っている自覚はあったが、次の瞬間、なんだかいろんなものが全て吹っ飛んだ。

「……うん、美味しい。……ありがとう」

 初めて見る類の笑みだった。
 一口食べて顔を綻ばし、ふわりと溶けるように笑ったその顔は、いつもの澄ましたような美しい笑顔では無く、涙で崩れた泣き笑いの顔で。

「お…おおおおぅ! どういたしまして?」
「なんで疑問形なの」
「うっ…うるせー。いいから黙って食えって、こっちは片付けてやるから」
「うん」

 素直に頷いての掌よりも大きなおにぎりを黙々と食べる。
 それを見ながら、こいつも素直で可愛い所がある……などと認識を改めた燕青であったが……





「静蘭様!」

 翌日、にこにこと微笑みながらまたしても甘味を持って現れた
 目を瞠った燕青に一言。

「好きでも無い人を追っかけてる訳じゃ無いから、文句は無いでしょう?」
「な……お前……」
「静蘭様は、誰かさんと違ってとってもお優しいもの」

 ブチリと血管の切れた燕青は叫んだ。

「優しく無くて悪かったな! やっぱ可愛くねーっ!!」


「……本当に良かったのですか?」
「構いません。少しは焼き餅とか……そんな可愛らしい性格じゃ無いのは分かってますけど、このままじゃ悔しいし……それに何より、あのコメツキバッタさんをからかって遊ぶと面白いって教えてくれたのは静蘭様でしょう?」

 自棄になって室を出て行った燕青は、だからそんな会話が交わされていたことなど知る由も無い。

 春風が気持ちの良い一日の――
 麗らかな春が来た茶州府での出来事。
CLAP