忘れたくても忘れられないほどに、その思い出は最悪だった。
出会い自体は悪くなかったのに――……
茶州・州都琥璉の宿で旅の汚れを落としながら、藍家の姫であるは溜息をついた。
体を沈めた湯をさらりと手で掬い上げる。
疲れを取る薬草を入れてくれているらしいそれは、ゆるゆると疲労を溶かしていくようだった。
お忍びであることを憚ってあまり上等な宿を取らなかったが、十分すぎるほどの心配りである。
琥璉は大分荒れていると聞いていたけれど、新州牧が着任し随分過ごしやすくなったようだ。
しかしそれは、新州牧の功績というよりも、十年以上にも渡って崩壊しかけの州府を守っていた前州牧とその補佐官の功績というべきだろう。
――そう、その全州牧というのが、かなり癪ではあるが、の天敵・浪燕青なのである。
私情は挟まず、認めるべき所は認める――それはが育った家の家訓でもあり、自身の信念でもあるのだが……
「ムカつくものはムカつくのよね……」
肩まで浸かった湯にぶくぶくと口元を沈めて、最悪な思い出を押し込めた。
初めて燕青に会ったのは、三年前――紫州と茶州の境である崔里まで数日という街道だった。
一人旅は慣れたもので、野盗に襲われることも珍しくなかったが、その時に限っていつものような助けが入らなかった。
金品を奪われ、自身まで盗賊の餌食になりかけていたのを、助けてくれたのが燕青だったのである。
「大丈夫か、嬢ちゃん」
あっという間に盗賊を倒し、怪我の手当てまでしてくれた燕青に、は素直に感謝した。
女の一人旅だと聞くと心配だと言い、そこから崔里までの三日を共に過ごした。
最初は、なぜか初めて会ったような気がしなくて、素性や普段は言わないようないろいろなことを話した。
相手も同じだったのか、浪燕青という名で茶州牧をやっていることや、その過去に関わることの一端でさえも聞いた。
だが、そうやって深入りしすぎたのが仇となったのか……その三日の間に少しずつ互いの性格が決定的にかみ合わないことに気付いていったのである。
例えば、偶然ひっ捕らえたスリの処遇についても意見は正反対だった。
病気の母親の薬代がかさみ、やむなくスリに手を染めた――そう言ってもう二度としないと謝る男を前に、
燕青は「あー、もういいって。これ以上おっかさん悲しませることすんなよ」と言って見逃そうとしたが、は迷う事無く警吏に突き出した。
何もそこまですることは無いだろう、と顔を顰める燕青に答えたのは、当然の理由。
「警吏に突き出さなきゃ、懸賞金が出ないでしょう」
そもそも、スリの挙動を見ていて分かったのは、病気の母親の話は本当だが、もう二度としないというのはデマカセだということだ。
それもそうだろう。真面目に働いてどうにかなる程度の費用なら、あのスリも最初から盗みなどに手は染めない。母親が病気で、治る当ても無く、生活していく術も無い。改心云々の問題では無いのだ。そうなれば、また次々に犠牲者が出ることになる。
警吏によって捕縛されれば、他の悪党への見せしめにもなり、あのスリにかかっていた懸賞金も出るのだから一石二鳥。
燕青の言うのは、ただの綺麗事だ。
「んなことは分かってる。だけど、アイツが捕まりゃアイツの母親はどうなんだよ!?」
「なるようにしかならないわ。ここの責任者が善人なら、罪人の家族も保護してくれるでしょう」
当時荒れていた茶州管轄のその土地でそんな事など望むべくも無いと知っていて、そう言った。
貧しいことは、時として罪である。
そしてその罪は、民一人一人のものではない。
結局は巡り巡って、上の人間……太守――州牧――王様が悪いのだ。
それを、州府長官である燕青に突きつけたのである。
藍家は、彩七家の筆頭でありながらかなり特殊な家だ。
本家腹以外の子どもたちは皆、あちこち違う場所で様々な育てられ方をする。
誰がどこで育てられるか――それは藍家の中でも最重要極秘事項なので、育った家のことは流石に燕青にも言っていない。
が育ったのは、藍門貴族の末席に名を連ねていながらも非常に毛色の変わった家だった。
占と呪を生業とする術師の家である。
この彩雲国においてその異能は瓢家特有のお家芸であるが、たちは術師と言っても異能で事を成す訳ではない。
全て膨大な知識に裏付けられた学問的術なのである。
例えば『予知』にしても、相手の所作・言動を観察し、状況を把握し、そこから未来を導き出す。
がこうして一人旅をして回っているのも、その『眼』と『力』を養う為である。
故に、何時如何なる時も、は特定の情を持たず、広い視野から冷静な判断をする。
事が起こったのは、いい加減間逆の燕青と共に居ることに疲れ、崔里の適当な宿で別れようとしていた時だった。
往来の真ん中で、若い娘と幼い少年が数人に囲まれている。
その囲んでいる内の一人は、いかにも貴族然とした豪奢な着物と輿に乗っており、その男本人が娘に絡んでいるようだった。
どうやら、美しい娘を手に入れる為に難癖を付けて無理やり連れて行こうとしているらしい――周りの人垣はただ集まるだけで誰一人動かない。娘も怯えながら、逆らえないと絶望しているようだった。
「やめろ、姉ちゃんを離せ!」
弟らしき少年だけが、唯一抵抗している。
「おいおい、大の男がよってたかって……はあ。、お前は先に宿行ってろ」
燕青はそんなことを言って一目散に走っていったが、は目を細めてそれを見送り、自分もゆっくりとそこに向かって歩き出した。
貴族の男たち相手に大立ち回りをしている燕青――しばらく人垣に混ざって見ていたが、燕青は一向に自分が州牧だと明かす気配は無かった。
は腹が立った。
燕青は、この場を瞬時に収めてしまえる切り札を持っているのに、使おうとしない。
正式な州牧では無いとか、茶家に命を狙われているからここで正体を明かせば周りが危ないとか、そんなことはただの逃げ口上に過ぎない。
確かにそれを使わずとも、回りくどいやり方で遠回りすれば、確かに事は片付くだろう。
けれど、無駄にした時間は二度と帰ってこない。
『犠牲を払う最善』――それを選ばないでいられるのは、それだけ余裕があるからだ。それだけ気持ちが本物でないからだ。
は、そうでは無かった。
そんな甘い了見では、今日まで生きることさえ出来なかった。
だから――……
は躊躇う事無くその輪の中に足を進めて、貴族男の前で膝をついた。
「――もし、貴方様は貴陽の顛家ご当主様ではありませぬか?」
「む……そ…そうだが、お前は……」
「ああ、やはり。私は藍門四家に縁ある者です」
藍の姓を持つなどと言えば話がややこしくなる。
巧みに話を誘導し、別の場所へ移るように仕向ける。
「このような下賤の者共は捨て置いて、わたくしの宿泊している宿においでになりませぬか?」
自尊心を擽る言葉で仕掛け、まんまと思惑通りに事を運ぶ。
転んだままの少年を助け起こし、娘の方には一瞥も暮れず立ち去った。
宿で双龍蓮泉を見せ、今日のことは秘密裏にする約定を交わす。
一通り事後処理も終わって宿から出ると、腕組をした燕青が待っていた。
「あーんな下衆野郎に、何だって媚び諂うような真似すんだ?」
ぴしり、との米神が浮かび上がった。
「媚び諂う? 貴方、本物の馬鹿ね。相手は貴陽の貴族……ここで変に騒ぎを起こせば、平民の方が調べの対象になるってことくらい分からないの?」
「そういうことを言ってんじゃねーって。は確かに藍家の姫さんだろうよ。だからって、『下賤の娘』よりも『貴族の下衆』の方が上みたいな態度はねーだろーが」
「――あなたにどう思われようと関係無いけれど、私、ああいう子は嫌いなの。今回の事だって自業自得――いい迷惑だわ」
――パンッ…
痛いというよりも、衝撃だった。
軽くとは言え、馬鹿力を持った大きな掌で叩かれた頬は、すぐにジンジンと熱を持ち始める。
「――どういうつもりかしら?」
ふるふると怒りに震えながら聞くと、燕青は思い切り顔を顰めた。
「お前を見てると苛々する」
「あら、奇遇ね。私もあなたを見てると虫唾が走るわ」
――かくして、今まで誰とも深くは関わらなかったに、犬猿の仲である…不倶戴天の敵が誕生したのだった。
それ以降、どういう訳か旅先でバッタリ4~5回顔を合わせ、その度に『最悪の記憶』は積み重なっている。
何が気に入らないと言って、あの男の持つ空気そのものだ。
力も知恵も権力だって持っていて、周りには助けてくれるたくさんの仲間も居て――そして、何より彼は自由だ。
いつだって、自分の身一つで好きな所へ飛び立って行ける。
それなのに、彼は飄々としていながら、いつもどこかで決定的なものを諦めている。
贅沢だ。
あの時の娘だってそうだ。
抵抗するなり、助けを求めるなり、泣き叫ぶだけでも、自分なりに最大限に努力し、最後の最後まで足掻くべきなのだ。
そういう意味では、あの少年の方がよっぽど賢い。
何かを待っているだけでは駄目なのだ。
ましてや、手の届くものに手を伸ばさないなど論外だった。
湯から上がり、清潔な着物に着替えて一息つく。
疲れた。
やはり嫌な思い出など振り返るものではない。
この茶州州都に来れば――ましてや静蘭に逢うならば、燕青にも会うことになるのは分かっていた。
だがまさか、何の心構えも出来ていない内に一番に会ってしまうとは思わなかった。
――「私と静蘭殿との縁談を纏めるために来たのよっ!!」
勢いで言ってしまった直後、一瞬驚いた燕青はすぐににやりと笑って、まるでおもしろい冗談を聞いたかのように、ここぞとばかりにからかい始めた。
いつものあの男らしい、憎々しい態度だ――
それなのに、なぜあの時………
なぜ、の胸がぎゅっと引き絞られるように痛んだのか。
あの場から逃げ出してしまったのは、静蘭にどう思われたかよりも、爆笑している燕青から逃れたかったからだ。
今頃、州城で静蘭にの悪口を滔々とぶちまけているかと思うと、怒りよりも泣きたいような苦しさがあった。
嫌われているのは十分知っているし、だって心の底から嫌っている――
それなのに、なぜ――……
その時、不意に部屋の扉が叩かれて宿の女将が顔を出す。
宛に預かったという手紙を不審に思いながらも開けば、それは燕青からの書付けだった。
前置きも理由も無しに、街外れまで来いとだけ書かれた手紙――
「……馬鹿じゃないの」
何だか頭の中をいろいろな感情が回っていて、は身支度もそこそこに宿を飛び出したのだった。