どこでも順応して生きていく自信はあるが、どこでも満足できるわけでは無い――
自分のそういう性格を知っているは、けれど意外な程に今の生活に馴染んでいた。
侍女としての一日は、単調なようで変化に富んでいたり、暇なようで忙しかったりと様々な面を持っている。
しがらみの多い身には忙し過ぎて何も考える暇など無いくらいがありがたく、そういった意味では日によってバラつきがあったが、元来退屈を嫌う割に特に不満は感じない。
それでも、日によって充実度が違うことは確かで。
その理由など一つしか無く、それは本人も痛いほど実感していることだった。
そして、ある日の終業後――
その日は朝から仕事が多く、すぐに眠ってしまいたいくらいには良い具合に疲れてもいた。
忙しいのは歓迎なのだが、思い返してみるに余り充実した日とは言い難かった。
理由は一つ――今日はほとんど政宗の顔を見ていない。
我ながら単純すぎるとは思うが、傍に居たいが為に今の生活を選んでいるのだから仕方ない。
ともかく、こんな日は早々に熱めの風呂に入り、部屋に隠し持っている銘酒を舐めてそのままぬくぬくの布団で眠ってしまおう――
至福の計画を実行するべく機嫌を上向けただが、風呂上がりに急遽、政宗の部屋から酒器を下げてくるようにと頼まれた。
彼は不在らしいと聞いて明らかに落胆する自分を叱咤して、笑顔で請け負う。
誰に会うことも無いだろうから、このままの半ば夜着のような恰好で赴いても問題は無いだろうと判断し、さっさと片付けてしまおうと足を向けた。
既に歩き慣れた奥の廊下を進み、無人の彼の部屋に入る。
何気なく部屋を見回して、ふと視線が一つのものに吸い寄せられた。
脇息の傍に、無造作に放り出された陣羽織――
今日は軍議があったから、そこで着用していたものだろう。
蒼天を映したかのようなそれは、戦に出る度に味方として傍らに……そして甲斐では敵として刃の向こうにまみえたものだ。
それを見つけた瞬間、様々な政宗の表情が蘇り、はその場に立ち竦んだ。
しかしすぐに追想を振り払うように頭を振って、広げられた酒器を片付けにかかる。
立ち止まってはならないと、思考とは別の場所で分かっていた。
何も考えず仕事をこなして一刻も早くこの部屋を後にして、浴びるほど酒を飲んで寝てしまえ。
自分に言い聞かせるように殊更無表情に片づけを済ませて、最後に脇息の横に膝をついて陣羽織を拾う。
それをたたんで置き、終わりの筈だった。
特に、何を考えた訳でも無かった。
けれどはふと、思い付きのようにその陣羽織に袖を通してみた。
疾うに温もりなど残っていないのに、煙管の香りがふわりとの鼻腔を擽る。
まるで政宗自身に抱きしめられているようだと思い、その考えに一人で赤面した。
こんな所を誰かに見られたら恥ずかしすぎる。
(でも、もう少しだけ……)
この胸の切なさが消えぬまでもせめて、落ち着きを取り戻すまで……
このままでは、酒を飲みながら泣いてしまいそうだから。
そんな女々しいことを考えて自嘲する。
目を閉じて、深く愛しいその香りを吸い込んだ。
いつものように政宗に付き従っていた小十郎は、ようやく本丸に戻って来てほっと息をついた。
今日は今朝から軍議だ戦の準備だと動き回っていた為、いつもより疲労が大きいらしい。
それを自覚してしまえば、溜息が漏れる。
体力には自信があったし、何よりこれくらいで音を上げていては独眼竜の右目などと称することは出来ないだろう。
けれどこんな時には、補佐してくれる優秀な人間が居ればと思わずにはいられない。
ふと、一人の娘の顔が頭に浮かび、小十郎は口元を綻ばせた。
確かに彼女ならば、小十郎の求める以上の仕事をしてくれるだろう。
けれど如何せん、彼女は敵国の姫であり、政宗の侍女であり、そして……本来の政宗の想い人であった。
相容れない肩書は、しかし全て真実であり、そのちぐはぐさが彼女の置かれている環境の苛酷さを物語っている。
とても、仕事を手伝わせるどころの話では無い。
こんな栓無いことを考えるのも、疲れている証拠だろうか……。
「どうした、小十郎」
「……は?」
「後ろで溜息ばっかつかれりゃ、居心地悪ぃだろうが」
「は……申し訳ありません」
自分らしからぬ失態に眉を寄せた小十郎を、政宗は鼻で笑い飛ばした。
「まあいい、お前も疲れてんだろ。兵糧も十分、軍馬の仕上がりも上々、明日は休みをやるぜ」
「いえ、それは。部隊の編成の件もありますので」
「馬の次は部隊か。相変わらず仕事しすぎだぜ、お前は」
そうは言われても、今日の軍議で示唆された開戦日に向けて速やかに準備を進めなければならない。
先ほども、政宗直々に軍馬の様子を見に厩まで赴くというので同行していたのだ。
仕事のしすぎは政宗の方にこそ言える。
尤も、政宗も小十郎も、代わりに任せられる者が居ないから自然忙しくなるのだが。
「大体お前は…――」
やや乱暴に自室の障子を開けた政宗は、その場で不自然に言葉を途切れさせた。
その視線は室内に向けられ、なぜか凍りついたように固まっている。
そこで初めて、小十郎は室内に人の気配を感じ取った。
話に気を取られていたのか、ここまで侵入を許すとは思っていなかったせいか……いずれにしても歯噛みする心地で鯉口に手をやって政宗の前に出た。
「政宗様、お下がりくださ――……」
しかしそこで小十郎も言葉を失った。
その室内の光景に、頭も真っ白になってただ唖然と視線だけが釘付けになる。
どれほどそのまま男二人して呆然と突っ立っていただろうか。
先に言葉を発したのは政宗だった。
「……オイ、小十郎。襲ってくれって言ってんのか、コイツは?」
ひどく疲れた声だった。
この見栄っ張りな主のこういった声は、珍しい以外の何物でもない。
「いえ……いや、申し訳ありません」
「何でお前が謝んだよ。……まあ、これが悪気無いってんなら、教育を間違えたとは思うけどな」
思わず謝った小十郎と、溜息をついた政宗。
その二人の視線の先では、一人の娘がすやすやと無邪気に眠っていた。
畳に置かれた盆と乗せられた酒器を見れば、侍女として片付けに来たのだということは予測出来る。
しかし彼女――は、なぜか政宗の陣羽織を羽織り、それに埋もれるように丸くなって眠りこけていた。
武将としての資質も兼ね備えているにしては不可解なことに、こうして人の気配が近くにあって――況してや先ほど小十郎は敵意を向け掛けたにも関わらず――起きる気配も見せない。
よほど疲れているのか、安心しきっているのか……
が伊達の城の中で安心してくれているというのは小十郎にとっては喜ばしいことだが、こうも無防備なのは問題である。
風呂上がりなのか洗い髪は背中に下ろされたまま、夜着にも近い小袖は若干着崩れて白いうなじが覗いている。
それが自分の部屋でしかも自分の服を着て無防備に眠っているとなれば……政宗で無くともその種の欲を抱いて当然だろう。
これが他の女たちのように城主の政宗に対する誘惑で無いことは確かだが、無自覚だとしたら男にとってこれほど性質が悪いこともない。
それも、記憶を失くしている今もを憎からず想い始めている政宗であるのだから尚のこと――
自分が同行している時で良かった。
そう思い、小十郎は着ていた羽織を脱いでにかけようとした。
しかしその前に横から伸びた腕が素早く彼女の体を抱き上げる。
「俺のを着てんだ。お前のは必要無ぇ」
不機嫌なその言葉の内容は独占欲でしかあり得ない。
眉を潜めた小十郎に背を向けたまま、政宗は部屋の奥に足を進めた。
「小十郎、早く床の用意しろよ。I'm sleepy.」
「政宗様……!」
未だ政宗に抱かれたままのの存在に焦って声を上げた小十郎に、振り返った政宗はニヤリと口元を歪めた。
「立派な据え膳だ。残さずきれいに平らげてやるよ。you see?」
「――お戯れも大概になさいませ。そのようなこと、この小十郎が許すとお思いか?」
「何でお前の許可が要るんだ? Ah-nn?」
「…………は妹も同然でございますれば」
「んじゃ黙ってろよ、brother. それとも、妹の相手がこの俺じゃ不服か?」
いつもの不遜な笑みを向けられて、小十郎は何も言えずぐっと詰まった。
何と言っても、政宗は小十郎の唯一絶対の主である。
思わずその眼力に負けて頭を下げそうになったその時、
「んぅ……ま…むねさ……」
政宗の腕の中のがもぞもぞと動き、舌足らずにそう発して温もり――政宗の胸元にすり寄った。
一瞬起きたのかと思ったが、それは紛れもない寝言で……しかも、柔らかく微笑んでまでいるとなれば……
「………shit!」
唐突にそう毒付いた政宗は、心底忌々しそうにを小十郎に押しつけて足音荒く部屋を出て行った。
呆気に取られた小十郎は、その背中を見送り、自分の腕の中でまだ眠り続けるに溜息を落とした。
「……大概罪作りな女だな、お前も」
主の心中を察するには十分すぎるほどの事をしでかした当の本人はまだ気持ち良さそうに眠っていたが、小十郎の手に渡ってすぐに居心地悪そうに身動ぎした。
「ん……? 政宗さ……?」
やはり、彼の人の腕の中で無ければ安心出来ないということか。
最早苦笑するしか無い。
「――寝惚けてる場合か、」
「え……?」
小十郎が声を発すると、今までの熟睡が嘘のようにはっと飛び起きたは、束の間茫然と小十郎を見上げ、次いでその体勢に真っ赤になった。
「こっ…小十郎さん……!?」
暴れて落ちそうになった体を支えてそっと降ろしてやった小十郎は、状況を掴み切れていないを落ち着けるようにその頭の上に手を置いた。
「よっぽど疲れてたらしいな。ここで寝ていたぞ」
「ここって……! !? 私あのままっ……!!」
ようやく現況に思い至ったらしく慌てただったが、更に自分が政宗の陣羽織を着たままだということにも気付いたらしい。
「あのっ、これはっ……!!」
言い訳しようとしたのか、勢い良く開いた口を、はたと止める。
そして恐る恐るといった風に聞いてきた。
「小十郎さんがここに居るってことは……」
「ああ…………先ほどまで政宗様もここに居られたな」
「っっっ…………!!」
真っ赤になって絶句したはしばらくその場に沈没し、やがて跳ね起きて今更にも関わらず羽織を脱ぎ丁寧にたたんだ――が、動揺しているせいでたたみ方がまるでデタラメだ。
……いまだかつて、これ程まで動揺したを見たことがあっただろうか。
眠ってしまったのはともかく、小十郎から見れば羽織を着てみるくらいは――身分を考えなければだが――可愛い悪戯である。
だが本人からすれば、それを羽織の持ち主――好きな男に見られたということだから、それは……何と言うかやはり恥ずかしいのだろう。
手元が狂いまくりで半泣きになっているの手から羽織を取り上げれば、哀れなくらい真っ赤になった顔を上げ、涙目で小十郎を見上げた。
「……小十郎さん……」
「あ…とは俺がやっておく」
反則では無いのかと思うようなその視線にぐっと堪え何とかそう言った小十郎に、は深々と頭を下げてだっと走り去……ろうとし、唐突に不自然な体勢のまま足を止めた。
「……ここが部屋なのに、どこに……?」
誰のことを指しているのかは明白だ。
もう夜半であるのだから、その質問も尤もだった。
そこまで冷静さを取り戻したのは良いことだが、真実を口にすることは憚られる。
「ああ……すぐに戻って来られるだろうからは……」
「もしかして………………私…寝惚けて何か言いました……?」
嫌な予感に顔を歪めているその様子は、さっきの比では無いほどに蒼白に……そして切なく苦しげに瞳を揺らしていた。
恐らくの心配は、政宗に失っている記憶に関することを言ってしまったのではないかという杞憂だろう。
その誤解を解いてやりたいのは山々だったが、代わりに本当のところを教える訳にもいかない。
同じ男として政宗には心底同情するし、同じように目を奪われていた小十郎から本人に言うのも無理難題というものだった。
小十郎はしばし無言でどうしたものかと考えを巡らせた後、ぴったりの表現を思い出した。
確か、政宗が言っていた発音通りだとこうだった筈だ。
「Ignorance is bliss.」
「えっ……!?」
「悪いことは言わん。政宗様が戻られる前に逃げた方が良い」
「ちょっ…小十郎さん、知らない方がいいって……逃げるって一体……っ」
「捕まれば俺でも助けられん」
「え!? え、え、ちょっ……マジですか……!?」
食い違っていることは分かっているが、やはり訂正は出来ない。
「一体私は何をやらかしたんですか……!!」
悲鳴のように響きわたったその声に、台風の目が来襲するのは目前――
混乱していてまだその気配が近づいてくることに気付いていないらしいに、小十郎は心底憐れみを向け、先ほどと同じ台詞を漏らした。
例え後数秒と言えども心の平安は大事だろう。
「Ignorance is bliss…….」