清かな鳥のさえずりが聞こえ、はふと目を覚ました。
時計などという文明の利器は無いので正確な時間は分からないが、障子に映る日の射し方からして丁度明け方頃だろう。
「明け…方……?」
寝起きのぼんやりした頭を思わず傾げた。
そう言えば、毎日日の出前には必ず聞こえてくるあの掛け合いが聞こえない。
いつもはそれで一旦目を覚まし、それでも完全に起きることは出来なくて苦笑しながら二度寝するのが日課である。
それなのに、今日のようにあの声が聞こえない平穏な朝に限って、ぱっちりと目が冴えてしまっている。
は仕方なく大きく伸びをして、布団を片付けた。
簡素な小袖と袴という普段着に着替え、井戸で顔を洗い、母棟の裏庭へと足を向ける。
一重の堀を巡らしただけの、到底城とは呼べない無防備な館……それが甲斐・信濃、ひいては三河まで治める大大名となった信玄が暮らす本拠である。
館の名は地名に由来しているが、その名が表す通り周辺には多くの躑躅があり、春になると美しい赤色の花を競うようにして開花させる。
武田のカラーと言っても過言ではない勇壮な赤に彩られた躑躅ヶ崎館は、柔らかな朝日を浴びて例えようも無いほどに美しかった。
「早起きは三文の得ね」
たまには早朝の散歩も良いものだと上機嫌になっただったが、吹きつけてきた風の冷たさに思わず首を竦めた。
春とは言え、まだまだ朝晩の冷え込みは厳しい。
舌の根も乾かない内に、やっぱり部屋に戻って二度寝しようか…などと考え始めたの視界にひらひらと揺れるものが入った。
驚いた拍子に足元の小枝を踏んでしまい、その音で視線の先の相手――幸村がゆっくりと振り返った。
目に入ったひらひらは、幸村の鉢巻と尻尾のような髪の毛だったらしい。
鋭敏になったの感覚をもってしても気付かなかったほど気配を消して立っていた幸村は、大分早くからに気付いていたのか、目が合うと目元だけを柔らかく緩めた。
「このような早朝にが起きて来ようとは、今日は雨が降るでござるな」
「……言ってくれるじゃない。幸村こそ、朝から大人しいなんて今日は嵐ね」
軽口のやり取りに微かに笑って、幸村はまた視線を元の場所へ戻した。
いつもと違う様子に戸惑いながら、も隣に並ぶ。
「……今日は、父上はどうしたの?」
「お加減が宜しくなく、侍医殿に朝稽古を禁じられたと……」
「……そう。後で一緒にお見舞いに行こうね、幸村」
幼子に言い聞かせるような口調になってしまったのは、幸村の表情が不安に硬くなっていたからだ。
随分昔に生き別れになっていたよりも、ある意味よほど幸村の方が信玄に深く依存している。
しかし信玄も近頃老いには勝てず、風邪をひいても長引くことも多かった。
「――、俺はもっと強くなれるであろうか」
唐突に呟かれた幸村らしからぬ弱音――いや、本音だろうか――に、ははっとして前を見つめたままの横顔を見つめた。
幸村の視線の先には、日本一の富士。
幸村は常々この館からの富士を見ては、炎をその身に纏って闘志を燃やしている。
その大声での気合に顔を顰めることも少なくなかったが、こんな風に静かに見つめる瞳を見たのは初めてだ。
「……幸村、一番とビリだとどっちが好き?」
「……一番でござる」
首を傾げながらも答えた幸村に、じゃあ一番と二番は?と聞いても、やはり一番だと答える。
は笑って頷いた。
「幸村は、武田の一番槍――父上の一番弟子、一番の早起き、一番の大食らい、一番の馬の乗り手――は、まあ私も譲れないにしても……ともかく!」
言葉を切り様、は大きく後ろに跳躍しながら懐刀を投げつけた。
手刀で弾いた幸村と間合いを開け、素手で構えを取る。
「何でも一番の幸村が、天下で最強になれないかもしれないと、弱音を吐くの?」
「――俺は…」
「それぐらいなら、私がこの場で幸村倒して、最強を目指すわ」
大きく地を蹴って鋭い踏み切りと共に蹴りを繰り出すと、とっさに両手で防御した幸村の見開かれた目と間近で見詰め合った。
すぐに反撃が始まって、信玄との殴り合いとは違ったとの攻防が繰り広げられる。
お互い、地に手をついた方が負けのスピード勝負だ。
どれくらいそうして組み手を続けていただろうか……
先にスタミナの切れただったが、疲れで大振りになったのが功を奏したのか、偶然幸村の死角から急所に入りかけ、マズイ――と思ったその時。
「はい、そこまでー」
絶妙のタイミングで間に入った佐助がの足を止めた。
疲れで攻撃を止める自信の無かったとしては、助かったというのが正直な所である。
「ありがとう、佐助」
「いえいえ、どういたしまし……」
「なぜ止めたのだ、佐助!!」
しかし、幸村は突然大声を上げ、佐助の胸倉に掴みかかった。
しばし呆然としていたは、そう言えば幸村を元気付ける為の…自信を付けさせる為の稽古だったことを思い出す。
いつもは体術では絶対勝てない幸村に、よりによってこんな時にマグレ勝ちしてしまうなんて――……
佐助もそう思ったのか、悪かったよなどと言って茶化して誤魔化し、に救いを求めてアイコンタクトを送って来た。
流石にこればっかりは――と顔を顰めたは、はっと思いついて話題の転換を図る。
「一番と言えば、幸村の初恋はいつだったの!?」
佐助を締め上げている腕を無理やり外してぎゅっと握って問うと、その質問の意味をゆるゆる理解した幸村が同じ速度で顔を真っ赤に染め上げた。
「なっ…なっ…はれ……」
「破廉恥は禁止で。――ね、佐助も気になるよね?」
「うわーそう来るんだ…………あー…と、そうね。うん、気になる気になる」
折角助け舟を出したというのに、その意味深な間は何だと迷彩忍者を睨み付ける。
佐助は冷や汗を垂らして、降参とばかりに両手を上げた。
「ははは、それにしても女の子ってその手の話が好きだよね。もよくそういう話、するの?」
「え? そうね……初恋とかファーストキスとか、そういうのは確かにしょっちゅうしてたかな…」
尤も、そういう話題であってもは専ら聞き役だったのだが。
思い出すのは、元居た時代の学校の友達……そして、米沢に居るまつやいつきや女中・ご近所の皆。
この甲斐では姫という身分が邪魔をして、そういう話を出来る女の子の友達というのがいないのだ。
「『ふぁあすときす』とは、何でござる?」
思わず飛びそうになった意識は、幸村の悪気の無い質問によって引き戻された。
の言いにくい様子と話の流れから大体の意味を掴んだ佐助などはニヤニヤしているが、幸村は純粋に聞いてくる。
適当に嘘をついても良いが、ようやく幸村らしくなってきた今が話をうやむやにする絶好の機会だと判断し、はイタズラに目を輝かせた。
「『ファースト』は一番最初のって意味で、『キス』は接吻のこ…」
言い終わる前に満開の躑躅よりも真っ赤になった幸村は、一歩近づいたを物凄い勢いで拒絶した。
「ははははははは破廉恥でござ……むぐっ…!!!!」
「………………!」
掴んだの腕を勢い良く振り払おうとして体勢を崩し、足元の石に躓いて転倒した幸村――その幸村の腕を掴んで居た為に一緒に引っ張られたは、幸村に倒れ掛かるような姿勢で一緒に転び……気がつけば、唇同士が微かに触れていた。
お互い目を瞠ったまま固まること数秒……色気の欠片も無いアクシデントは、真っ赤な幸村が発した『烈火』によって終わりを告げた。
「ちょっ……!!」
そんな必殺技をこんな間近で無防備に食らったら誰だって死ぬ――焦ったは、同じく焦った佐助によって救出されたが、後に残った幸村はまだ体を炎で包みながら呆然とを見つめていた。
(……もしかして幸村、ファーストキス…?)
事故とは言え何だか申し訳無い気持ちになり、それでも女のが謝るのも何だか癪な気がして……誤魔化すように、てへ、と笑った。
「――奪っちゃった」
「っっっっっっ……はっ…はっ…はっ……! 破廉恥でごさるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!!」
あまりにも大音声の叫びは、館とは言わず甲府中に響く声だった。
まだ早朝だということに幸村が気付くのはいつだろうか……。
呆然と立ち尽くしたと佐助は、顔を見合わせてはははと笑う。
「えー…と……、まあ……、First come, first served.……他の女の子にあげるよりはいいかな」
幸村は弟のようなものだが、可愛がっている分、誰かをお嫁さんに貰う時などきっと複雑だろうな……そう思っていただけに、は今回のこともそう前向きに結論付けた。
「…………ご愁傷様」
誰に、どういった意味で向けられたのか分からない言葉を残して佐助は消える。
その後、侍医の禁を破らざるを得ず自ら出向いて幸村を落ち着けた信玄は、事の顛末を聞き――いつもよりも本気で幸村を殴り飛ばした。
結局そのまま殴り合いに発展していつもの日常が訪れた躑躅ヶ崎館は、いつものように二度寝したといつものように起床した家臣たちによっていつも通りに機能し始める。
いつもと違っていた唯一のことは、幸村がその後三日は再起不能になったことだけだった――