珍しく戦の影も無く、平穏な日々が続いていたある日の事。
久しぶりに雨模様となった空を見上げながら、は溜息をついていた。
「殿? どうかなされましたか?」
廊下から掛けられた落ち着いた声に振り返れば、高く積み上がった書簡を両手いっぱいに抱えた綱元の姿。
仕事の途中に通りがかったのか、足を止めてこちらを見ている彼に、は笑みを浮かべて歩み寄る。
「――何でもありませんよ」
小十郎にしてもそうだが、伊達三傑は総じて若干過保護すぎるきらいがある。
そんな兄分に心配をかけてはいけないと何も無い風を装い、綱元の手から幾らかの荷物を引き受けて歩き出した。
しかし、いつもなら手伝いは不要だとでも言うだろう綱元は、後ろからじっとを見つめ、ズバリ核心をつく一言を口にする。
「寂しいならば、会いに行かれてはいかがです」
「!!」
思わず廊下を曲がり損ねて柱に頭をぶつけたは、まじまじと綱元を見つめた。
「寂しい? 私がですか?」
冗談だろうという響きがそれほどおかしかったのか、綱元は声を上げて笑った。
「はっはっはっ、一度鏡を見られると良い。……尤も、貴女がそんな顔をしている等と知れば、殿はすっ飛んで来られるでしょうがな」
鏡を見てみろと言われて赤くなったの頬は、彼がすっ飛んで来るという言葉で更にその赤みを増す。
問題の彼――政宗がの想い人であることは、恥ずかしながらも三傑には深く知られている。
日常の多くの時間を共に過ごすことも、だ。
だが、現在政宗は、奥州・関東を束ねる者として執務に追われていた。
これから来る厳しい冬に備えて、北国では備えなければならない諸事が山ほどあるのだ。
寝食さえも執務部屋で済ませ、大量の仕事に埋もれている今の政宗には、侍女であるでさえもう五日も会っていない。
政宗の逃亡と『息抜き』を警戒し、小十郎が張り付いているのは勿論のこと、綱元などの一部側近を除いては執務部屋に近づくことさえ禁止されているという徹底振りだった。
……確かに、そろそろ限界に来ているであろう彼は、が会いたいと我がままを言えば飛んできてくれるかもしれない――絶好の口実として。
「殿ならば小十郎殿も怒れないでしょうから、甘いものでも持って行かれては……」
「……やめておきます」
自分でも信じられないほど、その一言に自制心を要した。
「いま政宗様の手を止めるのは、誰の為にもなりませんから」
空を見上げながらのそれは、綱元にと言うよりも、自分に言い聞かせる為の言葉だった。
政宗の仕事が滞ることで、小十郎や彼の部下、更にいろいろな部署の人間から地方の役人……そして政宗の治める土地で暮らす大勢の民が苦しむことになるのだ。
更に政宗本人にしても、仕事を長引かせることは苦痛なだけだ。
「……殿がそう仰るなら」
呆れ気味に微笑んで仕事に戻っていった綱元と別れてから、は元の場所に戻って自嘲した。
綱元には尤もらしいことを言ってみたが、指摘されて初めて気付いた。
たった五日……そう、五日だ。
武田に戻っていた頃は数ヶ月も会わなかったと言うのに、たったの数日。
しかも、特に危険も無い状況で、同じ城内にいると分かっていて、事情も理解している。
それなのに、姿を見ていないというだけでこんなにも空虚感に苛まれるなんて、本当にどうかしている。
会いたくて会いたくてしょうがないなんて。
「自分を買い被ってたかも……」
呟いては、深い溜息をついた。
自分ではもっと、分別があると思っていた。
短い間だが、父である信玄を身近で見てきた。
広大な土地を治める大名の責任の重さも少しは理解出来ていると思う。
にも関わらず、綱元に会いに行ってはどうかと言われて、本気で心が揺れてしまった。
「……駄目だ! 気が滅入っちゃう」
ただでさえ、冬の雨はどんよりと暗く、闇が近いようで好きではない。
こんな風に鬱々としていては余計に自戒心が弱くなると自分を鼓舞し、雨でも出来ること――例えば料理や裁縫の練習でもしようかと廊下を歩いていた時だった。
不意に真横の障子が開き、手を掴まれて強引に引っ張り込まれる。
気配を感じなかった自分の油断を悔やみながら誰何の声を上げようとした口を大きな手に塞がれた。
「Be quiet.」
真後ろから耳元に落とされた言葉に、は大きく目を瞠った。
こんな所に居るわけが無い、と半ば現実逃避的な考えが浮かんだ時、バタバタと廊下を騒がしい足音が行き来し出した。
「居られたか!?」
「いや、こっちはいなかったよ。絶対ちゃんとこだと思ったのに本人も居ないし」
「まさかも連れてもう城から出られたのでは……!」
「エー、でも白斗は厩に居たよ?」
「ならばまだ城内に潜んでおられるか……!」
「――そんなに心配せずともこの雨だ。城門と厩を張っていれば問題無かろう」
三傑のそんな会話で全てを悟ってしまったは、ちらりと後ろの政宗に視線を投げた。
ずっと仕事場に篭っていたせいか、やや精彩を欠いていた顔色だが、の視線に気付いて悪戯の成功した子供のように笑う。
「……こんな所に居て良いんですか?」
三傑が居なくなったのを見計らい、赤くなった顔を悟られないように離れて言えば、政宗は深々と溜息をついた。
「当然だ。俺を誰だと思ってんだ? もう仕事は全部終わらせて来たぜ」
「……その割には皆さん必死で探されていたようですけど……」
「指示は出してんだ。後は俺じゃなくてもどうにかなる。アイツ等が死ぬ気で何とかすんだろ」
政宗の水準はすこぶる高い。
その彼が、「どうにか」だの「死ぬ気で何とか」だのと言うからには、三傑の命運は尽きたも同然だった。
三人には常日頃から多大に世話になりっぱなしのである。
こういう時に手助けしなければいつ恩を返せるか分からない。
「分かりました。政宗様は休まれてください。私は少しお手伝いに……」
「Rejection.(却下) それじゃ意味がねぇだろうが」
「は?」
「大体、五日だぞ? いくら何でも限界だっつーの」
確かに五日も缶詰では息も詰まるだろうなと同情のまなざしを向けたをしばらく無言で眺めて、政宗はやおら溜息を吐いた。
「お前、意味分かってねぇだろ」
「え?……ぅわっ!」
聞いておいて正解も教えないまま、相変わらずの強引さで手を引いて政宗は歩き出した。
「まぁいい。とにかくdateと行こうぜ、honey!」
「ハニーじゃありませんっ…て……デート!?」
繋がれたままの手とその言葉に真っ赤になったに、政宗は心底楽しそうに笑う。
「That's right!」
「……でも、城門も厩も見張られてるって……それに、雨降ってますよ?」
「今回は綱元もこっち側だ。歩いて行きゃ心配ねぇ。雨の日に出かけるってのも風情あんだろ?」
政宗の言葉がゆるゆると浸透して、はようやく笑顔を浮かべた。
仕事にも支障をきたさない。(三傑の犠牲に目を瞑れば)
雨でも政宗と一緒に出掛けられる。
何も気にせずにただ自分の欲していたもの――政宗との時間を過ごして良いのだと分かり、浮上しかけたは、裏口で傘を手渡された。
繋がれていた手は当然離され、政宗は自分の傘を広げる。
「行くぞ」
政宗はすぐ傍に居るというのに、離れてしまったその温もりに不意をつかれて、の胸がちくりと痛んだ。
傘を差して整備された城下を歩くのは確かに風情があるが、互いの傘の分だけその距離は遠くなる。
それに、片手で傘を差したまま手を繋いでしまえば両手が塞がる……いざという時対応出来ないそれは、刀を持つ者にとってはタブーである。
やっぱり雨は嫌いだ――我ながらそんな稚拙なことをが思った時だった。
「? ……Ahーhan...だったら、こうすりゃいいだろ?」
思わずじっと温もりの無くなった掌を眺めてしまっていたは、突然その手を握られてうろたえた。
更には自分の傘を放り出した政宗がの傘に入ってきて混乱する。
「まっ…政宗様……っ?」
繋いだ手を指を絡め合うように繋ぎ直されて思わず隣を振り仰いだは、思ったよりも近いその距離に硬直してしまった。
「折角の雨だ。こっちの方が風情あるだろ、princess?」
「こっ…これじゃあ私の両手が塞がっちゃうじゃないですか!」
その非難はほとんど照れ隠しのようなものだったが、実際問題でもある。
政宗と二人きりで出掛けるからには、何かあったらが盾になってでも政宗を守らなければならない。
しかし政宗は、問題無いとばかりにさらりと言った。
「何があっても俺が守ってやんだから、別に構いやしねーよ」
今度こそは反論する言葉を失って悔しそうに赤くなった顔を俯ける。
けれど握られた手は暖かくて、少し力を篭めて握り返したら、政宗の手にも力が入った。
それだけで甘い痛みに胸が満たされて、は歩幅さえ合わせてくれる政宗にことりと頭を預けた。
――やっぱり雨、嫌いじゃないかも。
そう思ったのはどちらの心だったのか、その答えはお天道様だけが知っているのかもしれない。