甲斐と越後にまたがる川中島――
その中でもこの日、武田軍・上杉軍が布陣したのは、広大な平地である八幡原であった。
しかし、布陣と言っても両軍が争う為では無く、その逆だ。
俄かに結んだ同盟をより強固とする為の酒宴だと、その大将同士が唐突に言って実現した宴なのである。
つい昨日に林道で浅井夫妻と出くわし、浅井の武田への侵攻を知っているとしては気が気では無いが、当の信玄本人は何処吹く風とばかりに上機嫌だ。
流石にいつでも浅井を迎撃出来るようにと本隊は府中に残しているし、信玄も謙信もすっかり戦支度を終えて互いの重臣と供回りを連れただけの酒席だった。
八幡原を流れる千曲川沿いに咲いた桜は今が盛り――それを肴に、長年この川中島で争ってきたはずの宿敵二人は何とも楽しげに杯を交わしている。
「よもや、この場所でお主と酒を飲むことになろうとは思わなんだぞ、謙信」
「はい、合縁奇縁――世の縁とはまことにふしぎであるもの。しかし、あえてこの地をえらぶとは、貴方様らしい」
謙信の言葉に、は酌をしていた手を止めて首を傾げた。
川中島での酒宴を望んだのは信玄と謙信の二人だったと聞いたが、まさか父が無理やりに連れてきたのだろうか。
その心配が顔に出ていたのか、謙信は珍しく笑って告げた。
「わたくしはこの川中島でと申しただけだが、ここ八幡原にきめたのはたけだけしき虎なのですよ、虎の姫」
「? それはどういう……」
「この八幡原は、互いが次の決戦の場と心得ておった場所なのよ。のう、勘助」
楽しげに言った信玄は傍らの軍師の名を呼び、呼ばれた山本勘助は一度深く頭を下げてからそれでもこちらも随分楽しそうに笑って見せた。
「は、真に惜しいことをし申した。この勘助、ここ八幡原でこそ軍神殿を破る秘策があり申したものを」
「何だと……!」
謙信の傍に居たかすがは腰を浮かせようとしたが、主に制されて大人しく引き下がる。
謙信も、もちろん信玄も、特別気分を害した様子も無く、それどころかおもしろそうに口の端を上げる。
「それは残念。鬼才軍師のさく、ぜひともこの身であじわってみたかったものです」
「はっはっはっ! 幻となったその戦がどうであったか、今となっては知る由の無いのだけが心残りじゃのう!」
「この幸村、必ずやお館様に勝利をもたらす所存でございました!」
「おう、よう言うた、幸村っ!!」
「お館さまぁぁぁ!!」
「虎の若子はあいかわらずいさましいようですね」
「命拾いをしたのは武田だ! 勝っていたのは謙信様に決まっている!」
顔を突き合わせて唸る幸村とかすがだが、二人とも若干酒気のこもった表情をしていて、相手に対する殺気は無い。
自身もあまり強くない酒をちびちびと飲みながら、は吹き抜けた温かい風に目を細めてそっと席を立った。
同盟関係の大名同士ともなればもっと緊迫した酒宴になると思ったが、この父と父の宿敵に対しては全くの杞憂だったらしい。
――尤も、この見事な桜が咲き乱れる河原が、血と火煙では無く、賑やかな笑い声に包まれたのは何にも代えがたいことのように思われた。
「……どうなさいました? そのように心を馳せては、浚われてしまいますぞ?」
掛けられた声にふと振り返ると、山本勘助が不自由な片足を引き摺りながら隣に並んだところだった。
一礼して差し出された徳利に苦笑して、丁寧に受ける。
本当は辛い酒は苦手だったが、どうも彼の中では『酒好き』と認識されているらしい。別段飲めないという訳でも無いし、好意を受けなければ失礼というものだ。
「おお、真に天晴れな飲みっぷりでござるな!」
一気に飲み干すと手放しで賞賛してくれて、は微かに笑った。
この勘助だけは、にも分からない。
武田家は比較的直情的で分かりやすい人間が多いが、勘助は純粋なようでいて姦計を働かせ、そうかと思えばひどく抜けていたりもする。
最初は、政宗と同じ隻眼――それも、彼と同じく幼少の頃に疱瘡に掛かった時の後遺症だと聞いて、心が揺れた。
けれどこの戦国時代で、伊達でも武田でも隻眼や体の一部を失くした人を大勢見た。
眼光の鋭さこそはっとするものがあるが、奥州の竜とは全く別の匂いのする人物である。
「――勘助殿は、そういう迷信を信じる方とは思いませんでした」
満開の桜の下に若い娘が立つと、花に浚われる――綺麗なものは間近で見たいと思うのは人の性で、そんな迷信で娘だけ花見を禁じられるはいかにも不公平だというのがの意見だ。
自分も少し酔っている自覚のあるは、出来るだけしっかりした口調を心がけてそれを言ってみたが、どうやらその内容の方がおかしかったらしい。
「ははは、姫様は変わったことを申さるる」
「……そんなに変でしょうか」
「変と申しますか……少し変わっているのは事実ですな。そもそも、姫君は戦に行きたいなどと言いますまい。しかも、武将顔負けの武勇も知略も持っておられる。戦場で一対一になれば――ほれ、この通り足の不自由な某など、足元にも及びますまい」
呵呵と笑って自分の片足を叩いてみせた勘助に、は目を細め、声を落とした。
「それは、一対一で無くば簡単に殺せる――ということですか」
「……簡単に、とは申しません」
剣呑な台詞を、しかし勘助は涼しい顔で酒を煽って返した。
「姫様は、今のように力を身に付けられる前に伊達で戦に出たことがお有りだとか」
「――はい、伝令隊の末席としてですが」
「なるほど……独眼竜の隻眼は随分な慧眼であると聞いております。無力な姫様がそのような大役の任についていたというのは、馬術と機転を買われた……といった所ですかな」
まさしく政宗に言われた通りのことを言い当てられて、は目を瞠った。
勘助はそれを見て口の端を上げる。
「某も、お館様の軍師として、この隻眼は濁っておらぬと自負しております。――なるほど、姫様は戦の経験もお有りで、ご自分を生かす力もお持ちだ。……なれど、将として戦に出るなら話は別でござる。某が相手方の軍師なれば、お館様や幸村殿の弱点となり得る姫様を生かしてはおきますまい。更に、そうした場合、姫様の敵は外だけとも限りませぬ」
直接的な発言が鋭い眼光と共に放たれると、ギクリと体が強張る。
敵軍の標的となり易いは、実際そうなった場合、同時に自軍からも狙われる可能性があるということだ。
理屈としては理解出来るが、受け入れがたいほど厳しい現実でもある。
しかし、ここで怯んでは、それこそ今日・明日に控えた浅井との戦でも置いてけぼりを食いかねない。
「……勘助殿の言いたいことは分かるつもりです。元より、父上のお役に立ちたい一心で迷惑を承知で出陣の許可をいただきました。ですから、武田の不利になるような捕虜・人質などという立場に甘んじるつもりはありません」
「……自害も御覚悟なさるとおっしゃるか」
真剣な表情の勘助に、は不敵に笑って見せた。
「そんなものを覚悟するつもりはありません。もし敵に捕まったとしても、絶体絶命の窮地に立ったとしても、死ぬ気と根性で切り抜けてみせます。――これ以上の親不孝はしたくありませんからね」
「死ぬ気と根性……」
呆然と呟いた勘助は、がそんな言葉を使ったのがそれほど意外だったのか、無防備に瞬きを繰り返す。
あれだけ恐ろしかった隻眼と『鬼』と評されることも多い軍師としての顔が突然可愛く見えてきて、思わず噴出した。
「なっ…某、何かおかしなことでも申しましたか」
勘助は急にうろたえ、以前信玄から聞いた話を思い出しては更にこみ上げてくる笑いと戦った。
「いえ、ただ……意外だと思ってたものを納得したというか…」
「はあ……」
要領を得ないように首を傾げる勘助に、は悪戯心が湧いて、懐の扇を広げるとそれで口元を隠して勘助の隻眼を覗きこむ。
「勘助殿は、私の眼をどう思いますか?」
「は…!? ひっ…姫様……!?」
主君の娘から顔を近づけられて慌てる軍師を逃がさず、は笑みを深くする。
「残念です……私の眼では役不足ですか。やっぱり、父上の眼で無いと駄目なんですね……それとも、『孫子の眼』ですか?」
「!! そっ…その話は……っ!!」
真っ赤になってうろたえたその様子はとても鬼軍師と呼ばれるようには見えず……はとうとう声を上げて笑った。
信玄から聞いた話によると――
勘助が信玄に仕えてまだ間もない頃、二人は遠駆けして温泉に浸かり、兵法について語り合った。
当時信玄が傾倒していた孫子の話題の途中、信玄は改まって「何処が好きか?」と勘助に問うた。
勘助はなぜか狼狽して言うのを躊躇ったが、信玄が真剣に先を促せば、ちらちらと信玄の顔色を伺い「言うなれば、その全てを見通す眼でございます」と答えた。
信玄は虚を突かれたが、希代の策謀家である勘助の随分間の抜けた勘違いに笑って「わしの事では無いわ。孫子のことじゃ」と指摘すると、勘助は慌てて「孫子の眼のことにございます」と付け足したという。
「ふふふ……勘助殿は、本当に父上がお好きなんですねぇ」
「いっ…いや、某はそういった意味では無くっ……! そ…某とて、姫様のようにお可愛らしく美しい方のお眼の方が……」
「お館様への忠心は誰にも負けぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
「うぐっ……!!」
「ゆ…幸村…!?」
突如真横から赤い拳が迫ったかと思えば、それは勘助の横っ面にヒットして足の不自由な体を軽く吹き飛ばした。
吹き飛ばした張本人である幸村はの横に降り立ち、緑の残像を残して佐助が勘助を助け起こす。
「……全く、油断ならぬ…」
聞き取れなかった幸村の呟きを置いて、は勘助に駆け寄った。
「か…勘助殿、大丈夫ですか!?」
「いや……ああ、かたじけない。心配御無用です、姫様。慣れておりますれば」
確かに武田名物、師弟愛という名の殴り合いの日課には、日々武田武将たちも巻き込まれている。
だが、慣れていると言いながらも、なぜか引き攣った顔で幸村を見ている勘助は、溜息一つをついて本当に文句の一つも言わずに立ち去ってしまった。
そうなってしまえば後に残されたは、悪びれない幸村にも、懲りずに信玄への愛を叫び始める虎の若子を囃し立てる武田・上杉両家の家臣たちにも、呆れるしかない。
いや、それすらも通り越して柔らかい笑みが浮かんできた。
天下の世情も、武田の戦況も、自分自身の状況も、決して穏やかなものでは無い。
けれど、今この瞬間、この場所だけは、本来敵であった者たちが集まり、美しい風景を共有し、笑顔を分かち合っている。
はらはらと飛んできた桜の花びらを捕まえて、は思った。
この平和な時が、早く日本中に広まれば良い――
天下が一人の武将の元に統一されて、一つの方針で統治されれば、こんな時間が当たり前になるのだろうか。
(そうしたら、もう一度会える……?)
北に向かって視線を投げ、それを断ち切るように幸村の元に駆け出した。
「父上への愛は、私だって負けないわよ、幸村!!」
「おお、!! 父は嬉しいぞ、我が娘よぉぉぉぉ!!」
「父上ぇぇぇぇ!!」
「ぬぅぅ、例えであっても、この幸村も譲れぬお館さむぁぁぁぁ!!」
「二人纏めて掛かって来い幸村ぁぁぁぁぁ!!」
直前で足を止めたの前で、信玄と幸村のクロスカウンターが綺麗に決まる。
殴り殴られたままの姿勢で両側にバタリと倒れるという日常風景を繰り広げる二人の前で、は握っていた手を開いた。
捕まえていた桜の花弁が、風に巻き上げられて飛んでいく。
願わくば、この穏やかな時が桜の花のように儚く散らぬように……
八幡原での杯は、緩やかにの心に乾されたのだった。
070417
戦前に何やってんの?とか、甲府から八幡原は遠すぎだろう!とか、常識的なことは皆スルーで。(笑)
07年大河ドラマ「風林火山」のヒロイン…もとい主役、の山本勘助をかなり出張らせてみました。
毎回内野勘ちゃんのかわゆさにはメロメロになってます(笑)
『孫子の眼』のくだりは、放送第十四回「孫子の旗」より。この番外の勘助とヒロインの絡みは、次章の冒頭に繋がる流れだったりしますので、大河知らない方もご容赦ください(汗)