頬にあたる風が、心地良く心を奮わせる。
 穏やかな緑風の間を滑るように駆け抜けて、は先を走っていた政宗に倣って馬を止めた。

「あっちが甲斐、そっちが小田原だ」

 眼下を一望できる丘の上――伊達政宗の所領である奥州の南西端だった。
 政宗が指差した右手には深い緑が、前方には大きな川が流れている。
 当然、走って来た遥か後方には、奥州の本拠である米沢があった。

「甲斐と小田原……」

 にとってはどちらも気に掛かる地名だ。
 前者の理由は分からなかったが、後者にはある男を思い出した。

 ――「所詮は女。守られるだけの存在など、何の価値も無い」

 力あることだけがこの世の価値のように言う豊臣の軍師――気に食わない男だったが、の痛い所を確実に突いたことも事実だった。そして、結果としてこの伊達の領地であった小田原を奪ったのだ。

「……小田原は、今の私には鬼門かもしれません」

 次に相対した時、あの竹中半兵衛の言葉に顔を上げていられるのだろうか……そう思って口に出したの台詞を、政宗は鼻で笑って一蹴した。

「この戦国の世に鬼門じゃねぇとこなんざあるか。心配する暇なんか無くしてやるよ。俺がこの手で時代を切り開くんだからな」
「――流石は未来の天下人ってところですか?」
「Ha! そうやって冗談めかして言ったこと、後悔するなよ?」

番外.夫婦漫才

 気分転換に遠駆けでも行くか?――政宗のその言葉に、一も二も無く飛びついたは、帰城して開口一番にこう言った。

「……最高! 最高だったよ、白斗!!」
「――そりゃ良かったな」

 黄色い声と興奮した眼差しで今まで自分を乗せて走ってくれた名馬に抱きつくと、彼も嬉しそうに嘶いてくれた。
 どこか憮然とした眼差しの政宗にようやく顔を向けたのはたっぷり数分経過した後で、やっと頭が冷えてきたは思わず苦笑する。

「連れて行ってくださってありがとうございました、政宗さん。帰りに白斗を貸してくださったことも」

 何も気付いていない振りで曇りの無い笑顔を向ければ、その誤魔化しが通じたのか通じていないのか、政宗は深々と溜息をついた。

「俺も気が晴れたからまあいいが……しっかしお前はつくづく白斗に懐かれてるねー」

 むしろ懐いてんのか、と言われた台詞にも、返す言葉は見つからなかった。
 そこからは、しばらく他愛無い会話をして過ごす。
 話の種も尽きたところで、既に日は傾き始めていたが、これから執務に戻るという政宗と本丸で分かれようと立ち止まった時だった。
 ――聞きなれた深い声が、もっと深い色を湛えて後ろから静かに掛けられたのは。

「――政宗様、お早いお帰りでございましたな」

 言葉は穏やかだったが、その声音に冷やりとしたのはだけではなかったらしい。
 呼びかけられた当の政宗も何かを感じ取ったらしく、二人して恐る恐る後ろを振り向く。

も一緒だったとは……城主も我が伝令隊も随分と暇なようで……国が平和な証だとも言えますか」
「こ…小十郎……」
「小十郎さ…ま……」

 見るんじゃなかったと後悔するような氷の微笑に、と政宗は硬直した。
 もしかしなくても、政宗は大事な仕事をほったらかして抜け出したようで、を連れて行くことも小十郎に告げていなかったらしい。

「お…おう、丁度良かったな小十郎! 例の仕事、がどうしても手伝いたいっつーから、今説明してたとこだ。今から一緒に来るだろ?」

 とんでもない政宗の台詞に、じっと視線を向けてきた小十郎に対してはブンブンと首を横に振ったが、横から政宗に足を踏まれて顔を顰めた。

(ちょっと、政宗さん! 冗談じゃありませんよ!)
(うるせぇ! 遠駆け連れてってやったんだから、ちょっとは協力しやがれ!)

 とは言っても、も本来の自分の仕事を置いてきている為にこれから残業確実だと思っていたのに、一体どうしろと言うのか……半ば泣きたいような心境で双龍の間に立たされたの元に、一筋の光明は唐突に降り注いだ。

「あー! ! 見つけたべ!!」
「何っ、!? お前どこに行って……」

 とたとたと軽い足音で顔を覗かせたのは、愛らしいいつきと小次郎のコンビだった。
 同じ年頃で最近気が合っている様子のこの二人は、美少年・美少女で黙っていたら大層絵になる――黙っていれば、だが。

「こったら所で何してただか? あれ、政宗に小十郎でねぇか。おめぇさ達もに用があるだか?」
「あっ…兄上……! ご…ご機嫌いかがでございまするか?」

 天然少女と兄バカ少年の無邪気な反応に、はいっそ心癒される気がした。
 しかし……

「ええ、私もにはたっぷりと用があるんですよ」
「小次郎……見ての通り、俺のご機嫌は最悪だ」

 腹黒傅役と苛立っている殿の言葉に一瞬の癒しも相殺された。
 は深々と溜息をついて、落胆した可愛い二人に視線を合わせる。

「……さっきまで少し留守にしていたんですけど、二人とも私を探してたんですか?」

 二人は同時にこくりと頷くと、突然、何の前触れもなしに突拍子もない爆弾を落とした。

は、オラと小次郎、どっちが好きだべ!?」

 勿論オラだべ!?――そう見上げてくる愛らしすぎるいつきと、無言だがしかめっ面を赤くして睨みつけてくるような可愛い小次郎に、はくらりと眩暈がした。
 一体急に何だと言うのだ……この年頃の子どもの間で流行っている遊びか何かだろうか。
 ――二人とも年上からの愛情というものには一般規格から桁外れた場所にいるので、懐いているを独り占めしたいという気持ちもあるのかもしれない……だがしかし……

(……一体何の拷問なの……)

 後ろには険悪な空気を漂わせている双龍、前には場違いなほどに愛い妹&弟攻撃――
 顔を引き攣らせたの頬を冷や汗が一筋流れ落ちた時、救いの神か破滅の悪魔か……再び第三者の声が割って入った。

ちゃんが好きなのは、もっちろん、この俺ー!!」
「成実殿!」

 急に後ろから抱きつかれて押しつぶされそうになったの体を、とっさに支えてくれたのは一緒に来たらしい綱元だった。

「うっ……あ…ありがとうございます、綱元さん」
「いやいや、怪我は無いですか? 成実殿は馬鹿故、加減というものを知らないのがたまに傷でー……」
「馬鹿とは何だよ、綱ー! つーか、どさくさに紛れて俺のちゃんの手握んな!!」
「お…叔父上の方こそ、いつまでにくっついているつもりですか…!」
「そうだべ! 成実も綱元も、早く離れるだ!」
「おっ、何だ竺丸ー、いつきとちびっ子同士で協定結んでるっての? だけど、ダーメ、ちゃんは俺んのだからあげなーい。ね?」
「――あ」

 後ろから抱きつかれたままの成実から頬に口付けられて固まった――だがその肩が急に軽くなったのは僅か数秒後だった。

「だぁーれが、お前のだって……? アァァァ? 成実ぇぇ?」
「うわっ、待てって、殿! ちゃん、助けっ……!」

 殴る蹴るの暴行現場から子供達の視線を遠ざけたは、勿論成実の断末魔など聞いてはいなかった。自業自得というものだ。というか、成実も政宗も、毎回このパターンなのによく飽きないな……あれが一種のコミュニケーションなのか、と前向きに結論付けた。
 しかしふと視線を上げると、憐れみの眼差しで成実たちの方を見つめる綱元の隣で、小十郎が渋面を作っている。

「あの、小十郎さん……政宗さんと一緒だったとは言え、抜け出したりして申し訳ありませんでした」

 精一杯頭を下げたの頭にぽんと手が乗せられ、小十郎の溜息が聞こえた。

はもういいです。どうせ政宗様に何の説明も無しに強引に連れて行かれただけでしょうから。それよりも――政宗様は少しは"りらっくす"されてましたか?」

 顔を上げたは、先程までの政宗を思い返してみた。遠駆けに出ているときも帰ってからも、終始上機嫌だったことは確かだ。

「はい、存分に」
「……それは、何より」

 ふわりと穏やかに微笑んだ小十郎にが目を奪われた時、ぐいと後ろから手を引かれた。

「――オイ、今晩飯を作りに行ってやる」

 を手元に引き寄せた政宗は、周囲に聞こえないようにその耳元に言葉を落とした。
 は急な言葉についていけずに声を上げる。

「えっ……政宗さ……」
「そうだな……鍋にするか。いいか、俺が行くまでに、材料完っ璧に揃えておけよ?」
「なっ……!」

 は思わず縁側から空を見上げた。
 そろそろ夕日が色を染める時間帯だ……城下の市が店じまいをする時刻である。ちなみに、当然ながら一人暮らしのの家にはろくな食料は無い。

「そんな、無理ですよ…! 大体、政宗さんだって仕事が……」
「――いいな?」

 有無を言わせず勝手な命令だけを残して去っていった政宗の背中を呆然と見送って、は残された熱烈な面々を振り返る余裕も無く走った。
 結局、どんなに身勝手でも、政宗の言葉に逆らう度胸の無い自分が悲しかった。







「――オイ」
「……あっ、お豆腐煮えてますよ。取ってあげますね、政宗さん」

 語尾にハートマークが付きそうな口調で言ってみたが、政宗のじろりと睨んでくる視線は変わらなかった。
 肌にぷすぷすと突き刺さるような針のような視線が隣にあるかと思えば、前にはピンク色の世界が展開されている。

「犬千代様、あーん」
「あーん」

「…………政宗さんも食べさせてあげましょうか」
「……はぁ、It holds back. (遠慮しとく)」

 今日は一体何の厄日だと思いながら、も引き攣った笑みを漏らした。



 あの後、全速力で駆けて伝令隊の隊舎に行ったは、残っている今日の仕事を確認し、書類を引っつかんで本丸を飛び出し、方々探し回って運良く疾風を見つけることに成功した。

「疾風!」
「……どうした、

 本当は万歳と叫びたかったくらいだったが、この疾風にまたいらない知識を付けては困ると自重して、早速用件を切り出した。

「疾風、もう今日の仕事は終わった? 終わってるよね? 終わって無くても城下まで送ってくれたら嬉しいんだけど!!」

 一息で言い募ると、疾風はやや目を丸くして幾分真剣な顔つきになった。

「どうした? そんなに慌てているということは何かあったのか?」

 確かに、疾風の前でこんなに焦っているのは初めてかもしれない……真剣に心配してくれているらしい疾風に罪悪感がこみ上げた。

「違うの。特に緊急のことじゃなくて、いえ、緊急なんだけど……政宗さんがちょっと……」

 政宗の我侭だと言ってしまえばそれまでなのだが、妙に説明し辛くて固まっていると、疾風はとんでもないことを言った。

「――ああ、『夫婦喧嘩は犬も食わない』という格言があったな」

 ぶっ飛んだ誤解は慌てて訂正し、は無事に城下に送って貰い、野菜などの鍋の材料や酒を仕入れ、移動中に目を通した仕事に家で筆を走らせたものをこれから城に戻るという疾風に預け……ようやく家でほっと息をついた時には日没から二時間は経った頃だった。
 それでも、我ながら素晴らしいスピードだと思い、持つべき者は忍者の友達だと疾風に感謝していた時――

 それは、唐突にやって来た。

 戸を叩く音に政宗かと思い、何の疑いも無く開けたの目の前に、逆さ摺りにされた大きな猪が差し出されたのだ。
 そのあまりのグロテスクな物体に、は悲鳴も出ずに血の気がさっと引いたのを感じた。
 しかし、猪を担いだ健康そうな夫婦は、相変わらずのテンションでの様子には気付かずにこう言った。

! 寒うなって参りました故、お鍋を致しましょう!」
「某が仕留めた猪が土産だ! まつのぼたん鍋は天下一品だぞー! たんと食ってくれ!」

 すっかりやる気満々で既に土間に入り込んだ前田利家とまつに、は苦し紛れにこう言った。

「ありがとうございます。でも、今日は政宗さんも来るって言ってましたし……」
「まあ! 政宗殿も来られるのなら丁度良うございました! お肉も野菜もたくさんあります故、大勢で鍋を囲んでも平気でございます」
「丁度良い時に来たようだな! 流石は某のまつ!」
「嫌ですわ、犬千代様ったらー」

 後は止める暇もあらばこそ、あっという間に担いでいた猪を解体し始め……は逃げた。
 血しぶきを撒き散らしながらも、どこまでもマイペースにあははうふふとピンク色の空気を垂れ流している二人の異様な光景を――直視出来なかったのだ。

 裏庭に出て、政宗に何と言い訳しようかと考えている所に、素晴らしいタイミングで本人が現れた。

「ア? なんだ、。折角裏から来て脅かしてやろうと思ったのに、計画が狂ったじゃねーか」
「ま…政宗さん……!」
「まあいいか。ほら、さっさと中に入れ。そんな薄着じゃ風邪ひくだろ」
「あー…と、その…ですね……」

 言い訳を考えていない内の対面にの頭は真っ白になり、政宗が怪訝そうに眉を顰めた。
 そして、スパンと中から障子が開けられたのだ。

! 出来ましたよ! ――まあ、政宗殿! 丁度良い所に来られました! ささ、早う中へ」

 驚く政宗と共に有無を言わせず室内に引きずり込まれ、四人で囲炉裏に乗った鍋を囲んで――今のこの状況というわけである。



「俺は、晩飯を作りに行ってやるっつったよなぁ?」
「そ…そうでしたっけー?」
「言 っ た よ な ?」

 低い声で凶悪な視線を向けてきた政宗に、はぐっと口を噤んだ。
 しかし、すぐに沸々と理不尽に対する怒りが沸いてくる。

「私だって、自分の仕事片付けてちゃんと言われたとおり買物もして待ってたんですよ!」
「Han、偉そうに言うが、疾風の手を借りただけじゃねーか」
「知ってるんじゃないですか! だったら分かってるでしょう?」
「Ahー? 何がだ?」
「……お願いですから分かってくださいよ」

 この前田夫妻の怒涛の勢いを前に無事回避できる人間なんて居るのだろうか……政宗だって自分と同じ立場だったら無理だろう。
 は深々と息をついて、目に沁みた鍋の湯気から顔を背けた。
 それと同時に、まだすっ呆けている政宗に、別の手で攻めようと考えを切り替えて小声で告げる。

「私だって、楽しみにしてたんですよ……? なのに、ひどい……」
「今更そんなしおらしくしてみたって俺は騙されねーぜ?」
「……もう、いいです」

 は体ごと政宗から背けて、わざとらしく鼻を啜った。
 目の前では睦言のような会話を交わしてイチャついている夫婦が居るので、芝居であっても、何だか本当に居た堪れない。

「……オイ、
「…………」
「あー、……分かった、もう許してやるからお前も飲め」

 前田夫妻の仲睦まじさは、政宗が早々に折れる後押しもしてくれたらしい。
 これでの勝ちのようなものだったが、おもしろいので政宗が差し出した杯も無視して、そのまま芝居を続行した。

、……いい加減にしろよ? オイ、呼んでんだろ!」

 とうとう痺れを切らして荒げられた大きな声に、わざとびくりと反応すれば、政宗が狼狽したように言葉を詰まらせた。

「チッ……悪かったよ。俺が悪かったから、いい加減機嫌直せ。ほら、お前の好きな甘い酒だろ?」

 ――そこまでで限界だった。
 既に酒も進んでいつもよりもハイになっている自覚のあるは、とうとう堪えきれずに噴出した。

「ふふふ……あはは…! あー、もう限界! 政宗さんってば、かわいい……!」
「なっ……!」
「こんな手に引っかかるなんて、奥州筆頭の名が泣くんじゃないんですかー?」
「テメェ……イイ度胸じゃねーか。知ってるか? 古今東西、悪い子にゃお仕置きって相場が決まってんだぜ?」
「そうですね。女の子泣かせるような悪い男にもお仕置きですよね」
「泣いてねーじゃねーか! つーか、もう泣かす!」
「やっ…イタタタ! ちょっと何するつもりですか!」
「ナニって……そんなこと聞いちゃって淫乱だねぇ、チャンは」
「ぎゃー、変態っ!!」
「……もう本気で怒ったぜ、kitty? 今日は吐くまで俺の酒飲ませてやる。何なら口移しで飲ませてやろうか?」
「離してください、セクハラで訴えますよ! そんなことしたら、こっちだって『アーン』で食べさせてあげますからね!」
「アァ? 出来るか、そんなみっともないこと!」
「口移しの方がよっぽど問題でしょー!?」

 ――ぶはっ…
 ――くすっ…

 あわや取っ組み合いになりかけていた所に聞こえた笑い声に、と政宗は同時にはっとして動きを止めた。
 二人きりの世界に浸っていた筈の高貴な夫婦は、いつの間にかこちらを見て笑っている。

「政宗殿と殿は、本当に仲が良いのだなぁ…!」
「まことに……まるで夫婦漫才を見ているようでしたが、我ら夫婦があてられてしまうくらいの睦まじさでございまする」

 言われた内容と、二人の存在をすっかり失念していた恥ずかしさに、は真っ赤になって俯いた。
 政宗も表情は見えないが、そっぽを向いている。
 しかし、うっかり彼の耳が赤いのを見つけてしまい、はますます恥ずかしくなった。

 四人で鍋を囲んだ夜は、怒涛の一日の幕引きのように賑やかに更けていった。












061205
本編の一章が切ない所で終わったので、明るいお馬鹿な話を――と書いてみました。
前田夫妻とWデート的なことを書こうとしたらなぜか鍋になりました。
一応、一章キャラ総出演(仮面は苦し紛れに回想でしたが)。
一章中にあった、平和な日々ってことで。
ちなみに、当然ですがこの時代に「漫才」はありませんが気にしない。
第一章・奥州編の応援、ありがとうございました!
CLAP