暁の声 - 露月ノ章2

 ふわりと、長裙の裾がなびく。
 まだ万全の体調ではないは、それに足を取られないように気を配りながら、長い回廊を急いでいた。
 隣には、わざわざ自ら迎えに来てくれた慶国の誇る有能な冢宰・浩瀚が居る。

「――そうご心配なされますな」

 突然の浩瀚の言葉に、は強張っていた顔をはっと上げた。

「""殿ご自身には、全く非の無いこと。あちらが何を言おうとも、泰然としておられればよろしいのです」

 二人がいま向かっているのは、外宮にある掌客殿だった。
 後半刻も経たない内に、そこに通されている使者との会談が始まることになっている。
 その使者というのは、隣国――巧の使節だった。

「ありがとうございます、浩瀚様。けれど、私に非が無いとは言い切れません。巧国の何万の民を謀ったことは、事実なのですから」

 巧から景王に使者との謁見を請う書簡が届いたのは、が目を覚ます少し前だった。
 新王即位の儀に正式な参賀の使節として訪れていた利広は、卓朗君として数日翠篁宮に留まっていたが、ふらりと金波宮を訪れた彼は、巧からの書簡を携えていた。
 そこには、今回の騒動と今後のことについて相談したいことがあると――景王・奏の卓郎君・慶の斎暁君との謁見を願う旨が記されていた。
 書簡からは詳細は読み取れなかったし、利広も何も言わなかったが、を"慶の斎暁君"と言っていることからしても、あちらはこちらの素性を把握している。
 最悪、慶が巧の儀王に加担したとして糾弾される危険すらある状況だ。

「少しでも主上のお役に立ちたいと思っていましたが、このようにとんでもないご迷惑をかけて……浩瀚様や皆様にも申し訳なく……」
「この度のこと――碇申の大逆の企てから一連の出来事は、極一部の者以外には知られておりません」

 の言葉を遮るように言った浩瀚は、彼には珍しい穏やかな笑みを浮かべた。

「知っているのは、主上のお側に在り、殿のことも良く知る者たちのみ。私を含め、皆、殿を守ろうとはせよ、迷惑などと思う者はおりません」
「浩瀚様…」
「そもそも、我が国の尊い飛仙を拉致したのはあちらなのです。あまり巫山戯た事を言うようならば、私とて黙ってはいられないでしょうから」

 一瞬でも穏やかだと思った笑みに、は頬を引き攣らせた。
 五百年を生きているでさえ怯むその笑みが向けられる相手を、心底哀れに思う。

「……ありがとうございます、浩瀚様」

 引き攣った笑みを戻し、は浩瀚に拱手した。
 わざと場を和ませるようなことを言いつつ、心からの励ましをくれる思いやりが嬉しかった。

 そう、非を認めることと、贖罪することとは違う。ましてや、慶に迷惑をかける形でなど、論外だった。
 故に、"慶の斎暁君"として臨むこれからの会談では、弱みを見せることは許されない。

「お見苦しい所をお見せしました。もう、大丈夫です」

 はそうきっぱりと言って顔を上げ、浩瀚に笑ってみせた。
 目的の掌客殿は、もう目前だった。





  

「巧州国・太師、南鵜(なんう)と申します」

 巧の使者として訪れたその老人に、は目を瞠った。
 即位式でも戴冠役を担っていた彼は、てっきり霧枳派の人間だと思っていたのだ。

 から話を聞いていた陽子も、視線で太師本人かと尋ねてきた。
 それに小さく頷くことで返すと、陽子は目の前の老人に視線を戻す。

「よく参られた、太師殿。私が景王・中嶋陽子です」

 王と使者との型通りの挨拶が交わされ、双方の席につくと、陽子の側近くに控えていた南鵜との目が合った。
 は一歩前に出て、膝を折り、正式な跪礼をする。

「お久しぶりです、南鵜殿」
「おお、これは台……いえ、斎暁君。お体は…もうよろしいのですか?」
「はい――大事ありません」

 南鵜の台詞に、慶側の数人が眉を顰めたのがにも気配で分かったが、は"斎暁院"として淡々と答えた。
 南鵜も何も言わず、利広や同席する景麒・浩瀚らとの挨拶を終える。

「まずは、このように内密の会談にしたことをお詫びする。正式な御使者として来られた太師殿には申し訳ないが、この度のことは、我が国でも僅かな者しか知らない」

 通常、他国の正式な使者を迎える場合は、朝議を行う殿堂で、高官らを揃えて謁見が行われる。
 掌客殿の一室で、数名だけの応対――それも人払いまでされているなど、通常ではあり得ない。
 しかし南鵜は、陽子の謝罪に恐縮するように深く頭を下げた。

「こうして拝謁叶っただけでも恐れ多いこと。それに、我が方でも人目を憚る用向きなれば」
「その用向きとは、どのようなことにございましょう」

 浩瀚が固い声で告げた台詞に、浩瀚と南鵜の視線が合わさった。
 しばらく後、南鵜が目を伏せるようにしてその視線から逃れ、座から降りてその場に膝を折って跪拝する。

「早速ですが、単刀直入に申しましょう。――伏してお願い申し上げる。斎暁院・様には、我が国の麒麟として今しばらくお力をお貸し願いたい」

 その場にいる全員が、自分の耳を疑った。
 ただ一人、顔色を変えなかった利広が口を開く。

「南鵜殿、逸る気持ちもお察しするが、皆驚かれていますよ。物には順序というものがございましょう」
「………まこと、卓郎君のおっしゃる通りです。申し訳ございません」

 項垂れる南鵜は、霧枳の側で見た時よりも憔悴しているように見え、は目を細めた。
 事情を知っていそうな利広を見遣るが、こちらの視線に気付かぬでもないだろうに、目を伏せたまま動かない。

(自分の目と耳で、判断しろと言うことか――)

 は軽くため息をつくと、南鵜の前に膝をついてその瞳を覗き込む。

「南鵜殿、ここに居る方々は全ての事情を知っておられます。気兼ね無くお話しください。――まずは、貴方の現在のお立場について……私が拝見したところでは、貴方は霧枳に与する方かと思っていたのですが、ここにおられるということは、そうでは無かったということでしょうか?」

 霧枳亡き後、新王に疑念と反感を抱いていた一部の派閥が動き、霧枳の側近・兵・女御他、多数の者たちは捕らえられたと聞いた。
 使者として訪れている南鵜は、そこには含まれないことになる。

「――正直に申し上げましょう。拙は、霧枳めが王などで無いことも、様の正体も存じておりました。その上で――偽王と知った上で、本気で王に戴こうとしていたのです」
「…それは、貴方だけではないでしょう」

 はそう言って目を伏せた。
 先代の巧麟が身罷って七年……新しい麒麟はまだ孵って幾年も過ぎていないのだから、が麒麟であることはあり得ない。従って、そのが選んだという王も王たりえない。
 それは、少し考えれば分かること。
 絶望して、それを無意識下に追いやるほど追い詰められた民の中にも、それを無視出来ない者はいただろう。
 官吏として宮城に居る者ならば尚更である。
 ほとんどの者は気付いて筈だ。
 それでも霧枳があれだけ権を握れたのは、霧枳を偽王に据えようとする派閥の勢いがあったのと、そうでない人々を霧枳ら呪師の力で無理やりねじ伏せていたからに他ならない。
 南鵜は後者だと思っていたが……

「太師の位をいただきながら、他の者のことは言い訳になりますまい」
「――なぜ、霧枳を王にと?」

 陽子の言葉に、南鵜は項垂れた。話すのも苦痛といった様子で、口を開く。

「景王君におかれましては、昨年巧で何人の民が命を落としたかご存知でしょうか」

 陽子は胸をつかれたように押し黙った。
 登極以前、妖魔に追われて巧の山中を駆け回っていたという陽子は、あの時より遥かに荒廃しているだろう巧を思い浮かべたのだろう。

「――聞き及ぶ限りでは、確か三万はくだらなかったかと……」

 浩瀚の言葉に、南鵜は静かに首を振った。

「それは確認された家屋数です。実際はその倍の約六万――報告も上がってこないものを数えれば、如何ほどになるのか……」

 一年で、六万――それは驚異的な数だ。
 それが新王が起つまで繰り返されるとしたら、巧からはほとんどの民が消えてしまう。

「天災によって命を落とす民だけでなく、荒民となって他国に逃れる民、そして余りの絶望から自ら命を絶つ者も増えてきております。巧は――例え偽りでも、荒廃を食い止め、人々の希望となる王が必要なのです」

 そう思ったからこそ、太師という地位にありながら霧枳に与したのだと――
 告げて頭を垂れた南鵜の言葉に、霧枳の最期の台詞が甦った。

 ――「誰からどう言われようと、俺は道に外れたことだとは思わない。この国には"この国を建て直せる王"が必要だった」

 巧には巧の――そして、国を真剣に想うが故の事情が、霧枳にも南鵜にもあった。
 には、それがどれ程の苦渋だったか、どれ程の決意だったか、痛いほど分かる。
 朝廷を知り、王を知り、五百年間下界を放浪してきた身だからこそ――

「霧枳亡き後、この身を更迭しようとする者たちを、拙は一命を賭して説得いたしました。既に即位の儀も済ませ、今ならば民は新王が登極したと信じております。真の王が起たれるまで、この偽りを貫き通すべきだと――」

 沈黙が、その場に落ちた。
 思ってもみなかった使者の用向きと話の内容に、一同驚愕を禁じ得ない。

「……偽りの王朝を存続させる為に、麒麟としてのが必要だと――そういう訳だね?」

 利広の言葉を南鵜は首肯して認めた。

「王は内宮に引き篭っているということにしても、麒麟までは誤魔化せませぬ。台輔が姿を見せないのは、悪戯に不安を煽る元となりましょうから」
「……………」

 は瞑目して息をつくと、一度も陽子たちを振り返る事無く、きっぱりと返答した。

「それは、お引き受けできません」

、それは――……」

 淀み無い返答に焦って、陽子が腰を浮かす。
 は立ち上がってそれを制すと、一同が見渡せる自席まで戻って拱手する。

「主上も皆様も、南鵜殿とご一緒にお聞きください」

 そして息をついて着席すると、ゆっくりと座を見回して口を開いた。

「元より、"慶の斎暁院"としてはお断りする他ありませんが、慶とは関係なく私個人としてならば、巧の民に少しでも償う意味でもお引き受けしたいという気持ちはあります」

 ならば――と言いかけた南鵜に、は首を振った。

「皆様は、現在の氾王君が登極されるまでにあった出来事をご存知でしょうか?」
「範の――駒王が退位された後のことだね」

 利広の言葉に、は頷いた。
 今からおよそ三百と少し前、はその時代、範の奇妙な噂を聞き、しばらく首都に暮らしていたことがある。

 時の氾王――駒王は、その晩年国を滅ぼす勢いで数々の悪政を敷き民を虐げたが、失道して麒麟が病むと、自ら位を退き身罷った。
 残された麒麟は病が癒えると新たな王を探したが、結局見つけることは出来ず、八年後に寿命で登霞する。
 範に残ったのは、圧政の元を生き抜いて耐えた民と、訪れた長い空位期間だった。
 国土の荒廃たるや、首都に居たでさえ眉を潜めるほどすさまじかった。
 道には餓死者が転がり、その屍体に妖魔が群がった。
 このままでは、国は二度と立ち直れなくなる――そう考えた王宮の高官らは、麒麟登霞を隠し、偽王を立てて民の心を安らげんとした。
 偽王を担ぎ上げ、宮廷行事や行幸まで頻繁に行った。
 民の不審を招かない為の布石――しかしそれは裏目に出ることになる。
 偽王の存在に疑惑を持った民が行幸中の一行を襲撃し、王も麒麟も偽者であると暴いたのだ。
 その後は、凄まじい混乱だった。
 噂は瞬く間に国全土に広まり、各地で反乱や内乱が勃発した。
 その戦いは国土や民を更に疲弊させ、草木の一本までも奪ったといわれる。

「そんな…そのようなことが……」

 話を聞いた南鵜は顔色を失った。
 そもそも当時の範とは違って、麒麟の年数が合わないのだから、不審に思う者も後を絶たないだろう。
 転変してみせろと言われれば、偽者だということが一発で露見してしまう。
 国の為――民の為と思うことが、逆にそれらを苦しめる結果になり得るのだ。

「我々は、どうしたら――」
「…――偽りを貫き通すという案自体は、私は悪くないと思うけれどね」
「それは、私も同感です」

 利広との言葉に、南鵜は縋るように顔を上げた。

「疑念を抱いても、確かめようも無いほど手に届かないものならば、それは永遠に確信に変わることは無い」
「……他の事で、私に出来ることならば、力の及ぶ限りのことは致しましょう」

「――南鵜殿、ただでさえ遠路の旅でお疲れの所に、今のお話……室を用意させます故、一先ず今日は休まれてはいかがでしょうか」

 呆然とする南鵜に、浩瀚はそう促した。
 また一回り小さくなったような南鵜は深い溜息をつき、恐縮しながらもそれに従ったのであった。
 






05.12.11
CLAP