■白昼夢■ 一部抜粋
気付けば、男達の手を振り払って逃げ出していた。
風を切る頬を戦慄かせてひたすらに駆けながら、アルテミシアは全身を絡め取ろうとする何かに怯えた。
アルテミシアの目が光を失ってから久しい。この森は星女神の神域内であるのでよく知ってはいるが、動物たちの気配がある昼間ならいざしらず、こんな夜半に盲目のアルテミシアが一人全速力で走り抜けられる筈が無いのだ。
それなのに、足は何かに引かれるように迷い無く地を蹴り、追手から離れようと懸命に動く。
神域を侵す侵略者たちに怯えて動物たちも逃げ出した森の中で……体力の限界を訴えるようにこれ以上足も動きそうにないのに……何より、先ほどのフィリスの声と剣が振り下ろされた音が耳から離れないのに。
何かの力に導かれるように、不思議と足は動いて、戻らなければならないという思考に靄がかかる。
「逃げ…なきゃ……逃げて……エレフに……エレフと……エレフ……」
まるで両側から見えない何かで引っ張られるように、逃げてはいけないという思いと、逃げなければならないという思いがせめぎ合う。
大切なものだけははっきりしているのだ。けれど……
今まで無我夢中で走っていた足が、やがて糸が切れたように減速し、ついには止まった。
自分が何をしたのかを確認するように震える両手を上げると、そこにぱたぱたと熱い滴が落ちて、アルテミシアは目を瞠った。
後から後から零れて止まらないそれは、自覚も無い涙であった。哀しいという感情も無いのに、涙だけが止まらない。
「moiraに逆らうことなんて出来ない……嫌だ、怖い…逃げ出したい……駄目、女神の紡ぐ運命から逃げるなんて……逢いたい…エレフ……」
矛盾した言葉が溢れて支離滅裂に零れる。
堰を切ったようなその感情の奔流に呑み込まれ、アルテミシアが目を開けると、そこには数多の地平線が在った。
盲いた瞳にも映っていた運命の糸が縦横に張り巡らされ、かと思えばぽっかりと途切れている場所――そんな不思議な空間――
〈おや、迷い子かな?〉
〈いや、これは珍しい。この子は《第9の現実》の……〉
〈アァ、アノ趣味ノ悪イ箱庭ネ〉
ただ呆然と驚きに固まるアルテミシアの前には、不思議な気配で包まれた何人かの人が佇んでいた。いや、ただの人と呼べそうな気配の相手は一人もいないのだが。
「あの、ここは……あなた方は、どうしてこんな場所にいるのですか…?」
アルテミシアには、ここがレスボスでも無ければ、自分が知っている世界でも無いことが分かっていた。生者の国でも無ければ、死者の国でもない。
しかしアルテミシアのこの質問は、先客達には笑われてしまった。おもしろそうに笑う者。明らかに嘲笑する者。泰然と微笑む者。様々である。
〈君はおかしなことを言うんだね。君もここにいるじゃないか〉
〈あなたも、狭い檻から抜け出さんと願ったのでは?〉
檻……そうかもしれないと考えて、そうではないかもしれないと考える。
今までのアルテミシアは、運命に従いながら、その中でも一人で凛と立つ事の出来る女性になろうと生きてきた。今日死すべき運命なのだとしたら、それを真っ向から受け入れ、殉じただろう。
けれど、その運命は『否定』され、アルテミシアは自分自身の運命を見失った。
そして今、この何処でもない場所に居て、何者でも無い人達と会話している。
〈それでお嬢さん、何事かお悩みかな?〉
「……私にも良く分かりません。どうしてこうなったのか……けれど私のこの身は、運命の紡ぐ糸から外れてしまった……のだと、思います」
――戦え――
神託はまだ聞こえる。
今までも時折聞こえていたものと同じだ。神は、立ち止まることを許しはしない。戦わず逃げることを許しはしない。
けれど、アルテミシアにとっての戦いとは、運命の中でもがきながらも生きることだった。そこから一歩外れている今、何と戦えと言うのだろう。
〈それはさしたる問題ではありません。運命から逃れたとしても、また別の運命に囚われるだけ。何処まで行ってもその繰り返し。既に定められた予定調和なのですから〉
「でも、私は……私はどうしてもエレフに会いたい……エレフとずっと一緒にいたい……」
運命はそれを許さなかった。だとしたら、結局この願いを持っているアルテミシアは自らの意思で運命に背を向けたということになるのだろうか。それとも、こうなることもまた、別に定められた運命なのだろうか。
分からない。分からない。分からない。
しかし、先客達の答えは明快だった。
〈だったら、答えは簡単だわ〉
〈簡単ダ〉
〈答えは出たようだね〉
〈何度デモ巡リ尚セバイイジャナイ〉
〈君が望む地平に繋がるまで……何度でも〉
《そう――これまでのように!》
「えぇい、ちょこまかと!」
はっと気付けば、腕を掴まれ、髪の毛を掴み上げられた痛みで悲鳴を上げていた。
周りの気配を窺えば、当然のように元居た森の中。アルテミシアは追手に追い付かれ、捕まえられていた。
不思議な場所も、不思議な人達もいない。
「何て逃げ足の速い女だ。やっと捕まえたぞ!」
そう言って突き付けられたヒヤリとする鋭利な感触に、体が震えた。このままでは、また運命の糸に絡め取られてしまうだろう。運命に従うことを望んでいた筈なのに、それだけは嫌だとまた何かが『否定』する。
「……私をどうするつもりですか」
「くくっ、殿下が《水神への供物巫女》にとご所望なのさ。そう――生贄だ」
殿下と言うからには何処かの王族だろう。盲目の代わりに運命を映すアルテミシアの瞳にも、神の眷属のことだけは映らない。見通せるのは、人のみなのである。
「……水神ということは、あなた方はラコニアの……?」
「はっ、あんな蛮人共と一緒にしないで貰おう! 我らは栄えあるアルカ……」
「おいっ!」
アルカディア――その名に、アルテミシアは息を詰めた。だとしたら……と考えたところに、不意にそれは突然飛び込んできた。
懐かしい――何より大切な、愛しい光。
「汚ねぇその手を退けろ!」
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「貴方とお話したかったので」
「話だと……?」
「――貴方の望みは何なのです? レオンティウス兄様は、貴方を虐げたりなどしないはずです」
妾腹と言えど、王子としては認められ、レオンティウスも一目置いている。嫡流として生まれながらも破滅の神託によって命を奪われそうになり、匿ってくれた人達の命さえ犠牲にして奴隷として売られたアルテミシアたちより、数倍幸福に思えるのに。
何故わざわざ反乱を起こし、父王を殺し、こうして多くの人々まで巻き込んで戦を起こすのか――アルテミシアはそれを本人の口から聞きたいと思ったのである。
しかし、返ってきた言葉と昏い瞳にアルテミシアは息を飲んだ。
「虐げる? アレが何様だと言うのだ? 生殺与奪を握る神にでもなったつもりか? いや、例え神にでも、この私の運命を易々と預けてやりなどせぬわ!」 欠けていく太陽の強い光が、赤い瞳を暗く光らせる。
そうか、とアルテミシアはようやく理解した。
スコルピオスもエレフセウス同様、運命に抗うことの出来ぬ無力な人間という存在を憎んでいるのだと。
「神の眷属もラコニアも、ヘレーネスもバルバロイも、全て等しく冥府に送る…。王になるのはこの私だ!」
そして天も地も、全てを憎んで、唯一平等に迎える冥府へと送る――
だがそれは、アルテミシアの望む地平とは真逆だ。
「……では、私も抗います。貴方が紡ごうとする運命から」
「ふん、神の眷属とは言え、無力な女の身一人でどうするつもりだ?」
「――勿論、一人になどさせません」
「! 貴様……!」
アルテミシアとスコルピオスの間に立ちはだかったのは、雷槍を携えたレオンティウスだった。
昨晩遅く――彼は突然イーリオンの南城門に現れた。
それだけでも驚いたのに、更にアルテミシアを驚かせたのは彼の話である。
レオンティウスは当初、アルカディアの王子としての立場から、イーリオンの許可を待たずに勝手に軍を動かすことは出来ないと当然のように考えていた。しかし不意に、その考えが何者かの意思によって否定され、気が付けばアルテミシアたちを心配する心のままにイーリオンに出発していた。
そうしてスコルピオスの急襲の中、敵の油断を突く為、夜陰に乗じてイーリオンへと入城したのである。
『否定』と聞いて、アルテミシアも自分の身に感じたあの不思議な感覚を思い出していた。
――介入が複数ある……?
ざわりと、運命の糸が騒いだような気がしたが、レオンティウスが側にいるならと、エレフセウスたちもこの作戦を受け入れてくれた。彼らも今頃、合図の狼煙に気付いてこちらに向かっているだろう。
「兄上――王など…死を運ぶことしか出来ない世界の王になど、何の価値があるのです!」
「それを……持てる貴様が言うかぁ!」
力と憎しみが激突し、周囲に神の力の余波が及ぶ。
全てを貫く雷神(ブロンディス)の槍と、何ものをも通さない水神(ヒュドラ)の盾――最強の矛と盾は拮抗し、稲妻と水柱が天に登った。
「ミーシャ! レオン兄上!」
「大丈夫か、二人とも!」
逆側の城壁から市街の中を進んで来たのだろうエレフセウスとオリオンも、下から兵を率いて駆け上がってきた。
「ミーシャは下がってろ!」
言い置いてすぐに、スコルピオスが連れて来た本隊と戦闘に入る。
昔、嵐の海で助けてくれた異国の海賊船で剣を習い、その後も旅をしながら腕を磨いていたというエレフセウスは、こうして戦いに出るのは初めてだと言うものの、圧倒的な強さだった。流石は神の眷属、オリオンと二人で周囲の敵を一掃していく。
オルフェウスとシリウスたちもその後ろに付いて上手く援護しているようで、アルテミシアは一先ず片割れの心配は無用のようだと胸を撫で下ろした。
「――ヒュドラよ」
槍と盾の凄まじい衝突に視線を戻したアルテミシアは、二人の兄を見つめながら一歩前に出て、天へと手を差し出した。
最早太陽はほとんどが闇に侵され、世界が夜のように暗くなっていく。
ヒュドラに語りかけたアルテミシアの脳裏には、レスボスで運命に背を向けたあの日見た、月を飲み込んだ泉が思い出されていた。
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