■novel■ 一部抜粋
花 冠 ― Corolla ―
「殿下ー! どちらにおられますか、殿下ー!」
騒がしいその声が行き過ぎるのを待って、彼は深々とため息をついた。
「全く……冗談じゃない」
心底辟易したという風に呟いたのは、しなやかな鋼を思わせる鋭い紫眼の青年。
エレフセウス――それがようやく取り戻した彼自身の名だ。
少し前までは別の名で呼ばれていた。紫眼の狼……奴隷部隊の将軍・アメテュストス。
「殿下ー…!」
声が大分遠くなったことを確認し、エレフセウスは上っていた大樹から降りた。
「呼んでんぞー? で・ん・か?」
「っ! オ…オリオン…!」
突然背後から声を掛けられ、跳び上がって驚いたエレフセウスは、しかしそれが悪友である幼馴染みだと知って深くため息をつく。
「驚かすな、この馬鹿」
「何だよ、驚かそうと思ったんだから無茶言うな。……それより良かったのか? さっきのお前の補佐官だろ? 探してたみたいなのに隠れたりしてよー、エレフセウス殿下?」
「面白がるのは止めろ。……そんな柄じゃない」
からかってくるオリオンの手を振り払い、エレフセウスはまたため息をついて歩き出した。
かつてエレフセウスは、双子の半身・アルテミシアが殺されたと思い込み、運命の神を呪って、東夷と結んで奴隷解放部隊を率い各地を転戦していた。
“アルテミシアの兄エレフセウス”は死んだものとし、”紫眼の狼・アメテュストス”として生きる道を選んだ。
だが、その決意を翻す報せを運んできたのが、このオリオンである。
アルカディアの王子・レオンティウスと戦っている所に現れ、敵対している男が実の兄であること――そして、アルテミシアが生きてアルカディアに保護されていることを知らされたのだ。
同じくその場で事の真相を知ったレオンティウスと二人の戦いを止める為に戦場に赴いてきた母カサドラに乞われたこともあり、もう一度”エレフセウス”としてアルカディア王家に入ることになったのだった。
だが、アルカディアに来ておよそ一月、エレフセウスは早々に後悔し始めていた。
幼い頃から奴隷として虐げられ、長じてからはその制度自体を無くす為に、天に弓を引く気持ちで戦い続けてきた。
怒りと憎しみを持って戦い続けてきた野の狼――それが今ではこんな雷神域の神殿で身綺麗な恰好をさせられ、”殿下”と呼ばれ、傅かれる。
「お前を尊敬するよ、オリオン。よくこんな窮屈なものに何年も耐えたものだ」
同じく奴隷仲間でありながらアナトリアの王子であることが発覚し、数年前にアナトリア王宮に入ったオリオンは、エレフセウスと良く似た境遇でありながらも、今では皇太子として多くの民からも慕われている。
こんな話をすれば、オリオンはいつも「慣れだよ、慣れ」などと言うが、エレフセウスと違って他に兄弟が居た訳でも無く、苦労が無かったはずはない。
それでも何でも無いことのように、太陽のように笑うのだ。
「けど、お前が王子なのは確かだろ。ミーシャも心配してたぞ」
ミーシャ――その一言でピシリと固まったエレフセウスは、恨めしげにオリオンを睨み付けた。
「……卑怯だぞ」
「――私のこと、呼んだ?」
「誰が卑怯なのだ?」
噂をすれば何とやらで、丁度居住区に差し掛かった辺りでアルテミシアと兄レオンティウスに出くわした。
思わずゲッと叫んでしまったエレフセウスは、取り繕うようにぎこちない笑みを浮かべる。
「ミ…ミーシャ、今日も良い天気だな」
「そうそう、良い天気で、良いタイミングだ、二人とも。ミーシャとレオンからも言ってやってくれよ。こいつまた王子業から逃げ回ってんだぜ」
「ばっ…オリオン!」
「本当なの、エレフ?」
「本当なのか、エレフ?」
全く同じ呼吸でそう聞いてきた妹と兄に、エレフセウスは顔を顰めた。
彼は、この王宮に来て以来、血を分けた兄妹とまともに話せていないのだ。逃げていると言った方が正しいかもしれない。
勉強として滞在している他国の王子オリオンとの方がよほど一緒にいる。
「何か支障があるなら話してくれないか、エレフ」
「私で力になれることがあったら何でもするわ」
心底こちらを心配して見つめてくる二対の瞳の前でも、何も返すことが出来ない。
なぜなら彼は――……
「はー……情けないのぉ、友よ」
突然しわがれた声がかかり、振り向いたエレフセウスは、そこに立っていた人物を見て瞳をいっぱいに見開いた。
「お師匠!?」
そこには、まだ少年の頃に育ての父母の墓前で別れた詩人ミロスが変わらぬ姿で佇んでいた。
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