■WIEGENLIED novel■ 一部抜粋
――ようこそ、歓迎する。 君をずっと待っていたんだ――
冷たく暗い水の底に落ちながら、彼はその声を聞いた。
「君は、誰……?」
彼は尋ねた。
声は答えない。
「君は……君だね?」
答えないのでは無く、その必要が無いことを彼は理解した。
自分は今、この声の中に居る。
「僕は行かなきゃ……!」
彼は水の中で手足を動かし、水面に向けて上昇を始めた。
しかし不思議なことに、確かに水を掻いているというのに、逆に体はどんどん沈んでいく。
そう言えば……と、この段階で彼はようやく気付いた。
水の中だというのに息苦しくもなければ、言葉さえ話すことが出来ている。そもそも泳いでいたのも錯覚……ココは水の中では無い。
彼は塔から突き落とされ、井戸の中に落ちた――それは確かな筈だ。
落下する刹那、塔から身を乗り出し、こちらに手を伸ばした母の絶叫が聞こえた。彼の好きな瑠璃色の瞳が悲痛に見開かれていた。
母に会いたいと言い、彼が案内した男たちはとんでもない悪人だったのだ。母の身が危ない。今すぐ助けに行かなければ。
しかし思った刹那、彼を包むモノに笑われた。
何故と思った瞬間、彼の中に何かが入り込んだ。
それは、例えるなら輝く光粒のようなもの。
例えるなら黒い靄のようなもの。
例えるならあらゆる光景、あらゆる記憶、あらゆる知識。
その微かな断片が彼の中に入り込み、時間を掛けてゆるゆると浸透していく。
そうして何かと混ざり合いながら、水の奥深くに沈んで墜ちていった。
その間、光を知って年月の浅い彼の瞳は、水に揺らめく月を映していた。かつて感動した頭上いっぱいに広がる空では無く、丸く切り取られた夜空を。
どれほど沈んだだろうか……永遠か一瞬か分からなくなった頃、彼は自分が見上げる空がいつも夜空なのに気付いた。彼が好きなのは、可愛い友達の瞳と同じ色をした澄んだ青空であるのに。
「エ…リーザベト……」
彼女の名を呟くと、途端に彼の中にいろいろな感情が溢れた。
彼はもはや、全てを知っていた。
自分たちが陥れられたことも、母が歩んだ喜劇と末路も、もう彼女との約束を守れないということも――自分が一番下まで墜ちて、奈落の底に立っていることも知っていた。
「ごめんよ……エリーザベト」
――嫌だわ、メルったら。忘れたの? 私はエリーゼよ――
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轟々と、音が聞こえる。
嵐のような風が荒れ狂う――
Schlafe, schlafe, holder, suser Knabe,
leise wiegt dich, deiner Mutter Hand;
sanfte Ruhe, milde Labe
bringt dir schwebend dieses Wiegenband――
口ずさんでいた子守歌を止め、一体いつからだったろうと、彼女は目を伏せた。
窓の外は季節外れの嵐。いつもの町や山野を一望できる雄大な景色ではなく、黒い雲に覆われ、僅か先も見通すことが出来ないほどの雨が降り続いている。
そしてまた、温かく快適な屋敷の中から黒々とした嵐の景色を眺めるように、着飾り取り澄ました貴族令嬢の心の中では醜い嵐が吹き荒れていた。
(そんなこと、分からない)
この身の内に時々抱えるようになった嵐がいつからのものだったか――その自問を愚問だと嘲笑うように答えを放棄する。
彼女は自分の行いが罪深いものであること、誤りであったことを認めていた。
そしてその誤りの原因は、いつから、どうしてだったのかと幾度も考えてきた。答えは未だ出ないまま……それでも、一生……いや死して後も後悔だけはしないだろうと漠然と確信していた。
――鉄槌を!――
ふと、嵐に混じって何かが聞こえた気がした。
――魔女に鉄槌を!――
「魔女……」
遠くで聞こえるような声に、ふるりと頭を振った。
テレーゼ・フォン・ルードヴィング――彼女は確かに魔女と呼ばれたことがある。けれどもそれは一年も昔のことだ。こうした嵐の日に、静寂がたゆたう自室で聞こえる訳がない。
「……アー、ムー」
その時、突然背後から上がった声に、何の色も映さず窓の外を見ていた瑠璃色の瞳がはっと温度を取り戻す。
慌てて小さな寝台に近づき、今まで眠っていた柔らかく繊細な体を抱き上げた。すると、今まで獣のように呻き声しか上げられなかった赤子は舌足らずに初めての言葉を紡いだ。
「…ィ……ウ…ムッティ……」
お母さん――確かに呼ばれたその初めての呼称に、テレーゼは胸から競り上がる熱い想いを堪えることが出来なかった。止めどない涙を流し、心の底から神への感謝を捧げる。
「嗚呼…主よ、感謝いたします。この子をお授けくださったことを。それだけで私は……嗚呼、ありがとうございます! この子が…メルが私の全てです…!」
こみ上げる愛しさのまま、我が子を抱きしめ何度も「メル…メルツ…!」と名を呼んで頬ずりする。
テレーゼはこの時、心の底から幸せだった。
たとえ罪を犯したとしても、たとえ誤りだったとしても、この腕の中の我が子だけがテレーゼの生まれてきた証であり、生きていく意味でもあった。
しかし、罪に対して罰は下される――
「何をっ…何をするのです、アンネリーゼ!」
ある日、突如部屋に乱入してきたのは父の妾妃とその私兵たちだった。
何も言わず押し入り、あろう事か眠っているテレーゼの子をその寝台ごと担いで部屋から連れ出したのだ。
当然抗議したテレーゼだったが、私兵に押さえつけられ、その眼前まで歩いてきた妾妃アンネリーゼが愉快そうに笑う。
「あら、テレーゼ。お母様と呼んでくださってもよろしいのですよ」
「母?……母上はとうに亡くなられた!」
何を言っているのだろうと、テレーゼには全く理解出来なかった。方伯である父の正妃はテレーゼを生んで間もなく亡くなった母一人で、他に数人いる妾たちはいずれも正式な妃の待遇を与えられていない。そんなことは領地の民でも知っている話だというのに、なぜ今更――
「既に死んだ方のことではなく、いま目の前に居るわたくしのことを言っているのよ。だって遠くない内にそうなるのですもの。今から呼んでくださって構わないわ」
「何を――……」
言っているか分からないと続けようとして、テリーゼは這い上がる悪寒に身震いした。
「返して……私の子を返して!」
とにかく、それだけがどうしても譲れないことだった。アンネリーゼが何を企もうがこの際どうだって良い――我が子さえこの腕の中にいれば、後は例え世界がどうなろうとも関係無かった。
けれど、義娘とそう年も変わらぬ妾妃は優美に笑う。
「そんなに必死になってはしたない。返して欲しければ返して差し上げますわ」
アンネリーゼの合図によって室内に運び込まれた寝台に安堵したのも束の間、テレーゼの表情は凍り付く。
違う――
「ち…がう……この子は―― !」
「その子はテレーゼ――貴女が産んだ子。貴女が産んだ盲いた子ども。私が産んだ健全な男児とは違う……不自由な不完全な……可哀想な子」
その狂気に歪んだ瞳を見た瞬間、テレーゼは悟った。
――これは、私だ。
目の前に居るのは、ありのままの自分を認められず、受け入れられず、罪と知っていてなお歪んだ愛に縋ってしまった自分自身なのだと。
「……え…て……返して!」
だが、テレーゼは……いやだからこそ、目の前の自分自身に抗った。
私兵の腕を振り払い、部屋に装飾として掛けていた剣を取り、久方ぶりの無骨な感触を握りしめてアンネリーゼに斬りかかる。
「返して! 返して! 私の子を……私のメルを!」
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